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ぐちゃぐちゃな人生だった僕が将来について語る

初めまして、OTTAです。
noteで初めての記事投稿をします。

(この記事は僕の半生を語るため長いです)

まず軽く自己紹介をさせてください。
25歳 / 男 / 会社員 / 肥満 / 貯金全然ない / 昔バスケしてた

ツイッター風にざっくり書くとこんな感じ

ちなみに務めている会社は海外に係る仕事で、
役職はマネージャーですが、まだまだペーペー社員です。

さてと、
こんな私がなぜ急にnoteでブログなんて書き始めたのか?
その経緯をお話しさせてください。

1、これまでの僕人生
2、現在の状況
3、これから目指す未来


1、これまでの僕の人生

僕は東京の青梅で生まれた後すぐに、埼玉県の上尾市へ引っ越し、
そこで中学生までの時を過ごした。

<小学生時代>
小学生の時には5年時に上尾中央小学校から、同じ上尾市内の大石小学校へ引っ越し、大変肥満児だった僕はいじめの標的となった。

5年生っていったらもうローカルの人間関係も出来上がってるわけだし、

そこへ、えんぴつも筆箱も洋服も巾着袋も箸も.....全てをドラゴンボールで揃えた陰キャラが転校してきたら、陽キャら集団にとっては格好の餌食だ。

まるでライオンの群れの前を走るイボイノシシ

そんなこんなで6年生の終わりまでいじめられ、
正直のこの二年間の記憶は良い記憶も悪い記憶もあまり覚えてない。

覚えていることは給食のカレーと麦ごはんが美味すぎて
5,6回はおかわりしたことくらいだろうか?

だからデブなんだ





<中学校時代>

小学校時代に体型が原因でいじめられた経験から、
中学校では運動量の多い部活動に入ろうと思っていた。

もともと水泳もやっていてクロールで県ベスト4くらいまで、
肥満体型で上り詰めた経験もあったが、

6年間もやっていたせいで飽きてたので球技を探した。

そして、
「この地球上で俺に最も適したスポーツはハンドボールだ!!」

そう思い立って探してみたが、見当たらない。

なんと中学校ではハンドボールはメジャーなスポーツではなく、
クラブチームが埼玉県川口市にあるだけだった。
(車で30分以上かかる)

「それならば手で扱うスポーツが好きだからバスケか野球にしよう!」

野球は経験者多いイメージだし、
ダイエット目的なわけだから、

「より運動量の多そうなバスケ部だ!」

そしてバスケ部へ入部した。
(地獄の始まり)

とにかく僕が軽い気持ちで入ったバスケ部は、
全国大会常連のスーパー強豪校であった。

部員も40~50名近くいて、全員坊主
なぜか市立なのに県外から越境してくるメンバーが全体の半数はいた。

「はい、完全に来る場所間違えたー」

※バスケ部時代の詳細な思い出はまた別の記事で書こうと思う

そんなこんなで入部してすぐの夏休みで20㎏も体重が落ち、
ダイエットの目的は速攻達成された。

中学校1,2年時は万年スタンド応援だったが、
3年時には奇跡の成長でスタメンこぎつけた。

僕の初めての人に語れるプチサクセスストーリー

あなたはお気づきだろうか?

勉強の話が一切出てこないことに。

そう。
この3年間で僕は学業というものを疎かにし、
常に288位/300人中くらいをキープし続けた。

でも大丈夫、
高校進学はバスケ特待生で進路が決まっていたのだ!(キラキラ)




<高校時代>
僕の進学した学校は

埼玉県出身の方か、
もしくは野球好きな人が知ってるアスリート学校

花咲徳栄高校である(ドンッ)

この学校に来たことで僕が面食らったことは
まずスポーツテスト

中学三年時には開花してスポーツテストが5位だったのに、
この学校では120位くらいだった。

ボール投げをすれば場外で測定不能が多発し、
50m走でも大体7秒前半でも遅い方。

肥満児からパワータイプへ変身したつもりだったが、
どうやらこの環境では一般的な身体能力らしい(笑)

まぁとりあえずバスケの話に戻ろう。

僕は中学生時代はセンターというポジションをしていたが、
(経験が浅くボールの扱いが下手、デブでちょっと背が高かったから)

高校からはさらに身長が高い選手も多く、シューターとなった。
(スラムダンクで言うとゴリから三井寿になった感じだ)

そして最初1年は埼玉県上尾市から群馬との県境の加須へ通い
(毎朝4時半起き5時18分の始発で通学、21半帰り)

2年目からは高校の近くで1人暮らしを始めた。
なにせ朝がきつく授業中大爆睡で指導が入ったからだ。

その甲斐もあり、
学校が近くなったことで、勉強にも精を出し始めた。

良い流れだ。

結果的には、
花咲徳栄は普通科・進学・特進など16組ほどのクラスに加えて、
2クラス食物科というコースが存在するが、

その中でも僕は7組の進学科に入り、
校内テストで1位を取り続けた。

コース自体の偏差値が52-54くらいだったので
自慢できるものではないが、

これまで勉強に触れる事すら嫌悪していた僕にとっては
大躍進である。

バスケの方でも、
埼玉県の東部の選抜にも選出され、
選抜大会では優勝し、

正直モテた(めっちゃ可愛い彼女もいた)
※花咲徳栄高校は絶対的に恋愛禁止、2回ばれたら退学(ガタブル)

3年の8月にはバスケ部を引退し、受験勉強を始めた。
東洋大学に推薦で行くか迷ったが、受験に挑戦してみたくなったのだ。

ちなみにバスケ部は地区大会上位校しか出れないウィンターカップに
残ったが、僕は勉強が間に合わなすぎるので引退を選んだ。

あとは当時日本代表になっていた馬場雄大選手とマッチアップし、
あまりの能力差からバスケへの熱意も失っていた、、、

そこから時間はないが半年間は受験勉強の覚悟を決めたが、
なんとどこの予備校にも遅すぎると断られた。

しかし1校だけ受け入れてくれた。

高校時代の仲のいい友人H君も通っているということで
進めてくれたとある学校がある。

みんな大好き”東進”だ
教材さえ買ってくれればおk。

そこから毎日7~10時間勉強し、
受験勉強開始前の偏差値40から
模試に関しては良い時で60台までをたたき出した。

誘ってくれた友人H君との勉強の合間の
マックや、休憩室でのカップラーメンは
今ではささやかな青春だったな。

~~~

そして試験本番、
僕は法政大学と中央大学、獨協大学を1学部ずつ受け、

第一志望の法政大学では前の席の文章を読み上げるおじいちゃん受験生に惑わされ、まったく集中できず撃沈。

中央大学では大雪で電車が止まり30分以上遅延したので、
あきらめた。つまり会場に行かず帰ってしまった。

獨協大学だけはしっかりと30分前には到着して受験し、
無事に合格できた。

ここで僕が学んだ教訓はまとめて1つ

1つ目は、僕のように付け焼刃で挑戦しても、
進学校などで積み上げてきた人たちとは出せるパフォーマンスの安定感
が違うこと。

ここまで僕が言い訳のように受験体験を書いているが、
皆状況は同じだったはずだ。

僕は受験経験も皆無で、試験範囲も全部をカバーできていない。
完全なる経験と準備不足だった。

目の前に謎のおじいちゃんが現れたり、
どタイプの女の子が座っても、

試験に100%全集中で取り組ねばならない。

とにもかくにも、
僕の受験への挑戦は中途半端な形で幕を閉じた。

ちなみに友人H君も志望校には落ちた

二人で仲良く詰んでいた(笑)
そして二人は別大学へと進んでいた。

大学生時代

前段の続きだが、
浪人する勇気も気力もない僕は

唯一合格した
獨協大学へと進学した。

サークル勧誘スルーし、
友達作りも特にしなかった僕は即孤立したので、

なんとなくで体育会バスケ部に入った。

しかし僕のバスケへの情熱は高校の最後の大会で折られており、
入部するも中途半端なレベルと、虚無感からすぐに辞めた
(ユニフォームは調子こいて背番号で1番で作った)

それからというものの
バスケサークルに加入したり、
図書館にこもって本を読んでみたり、

大学に行かずオンラインゲームをしたり、
クラブでナンパして女の子をあさったり、

適当なことをしてみたが、
全くやりがいも何も見いだせず

時間は死ぬほどあるがやりたいことはなく、
バイトも始めるがシフトは浅く金もたまらず、

僕は深い沼にはまっていく感覚を常に持っていた。

そして大学最初の夏休み


僕はあまりにも内なる虚無感が肥大化していくことに恐れを感じ、
大学の講義中1人うつむき気味でやりたいことを考えていた。

そして絞り出した。

留学だ。

ただ僕はお金もないし、両親も裕福ではなかったので、
カナダ留学を打診してみるも断られた。

そしてググり続けた。

海外留学_英語_格安

そしたらフィリピン、フィジーが出てきた

フィリピンはよくわからない。
フィジーはラグビーのイメージ

友達がフィジーに行ったので、
じゃあ僕はフィリピン!

という偏差値37くらいのアホが考えそうな決め方で
フィリピンを選んだ。

「どうせなら日本人が少ない方がいいなぁ」

どれどれ、
マニラ、セブ、バギオ、ダバオ

マニラはめちゃくちゃ治安が悪いのか

セブは環境のいい学校が多いが、日本人も多いのか

バギオは山、あと治安悪い

ダバオ、ドゥテルテ市長(当時)最強、治安良好、海

「ほーん、じゃあダバオで」

即決だ。

早速ダバオで学校を調べると、
会話コースは1校しかなかった

しかも日本人も少なかった。
そして学校紹介にはバスケリングが映っていた。

「ここしかないですやん!」

すぐさま電話し、
エージェントを介さず国際電話で直電してきた僕に、
関西弁の学校マネージャーは驚きながらも手続きを進めた。

決めたら即行動。

なんやかんやで2週間後には僕は1日早く勝手に大学夏休みを始め、
飛行機の中にいた。

ちなみに
今は集客力の弱さと、コロナの影響でこの学校は閉校したらしい(涙)

自身で準備しての海外旅行経験がなかったため、
成田→マニラ、マニラ→ダバオの航空会社を違う会社で予約し、

マニラ空港に到着後すぐにパニクッた。

自分でピックアップして違う航空会社チェックインしろと言われたが、
(当時は空港スタッフが全く何を言ってるか理解できなかった)

その場所が分からない。

そしてやっとの思いでトランジットのためのカウンターを見つけるも、
チケット予約の時に預入荷物を7KGで設定してたらしく13kgオーバーしてた。

僕は顔面赤面、頭の中は真っ白。

手持ちのリュックに絶対必要なものを詰め込み、
後は服とか、シャンプーとか、本とか空港のごみ箱に捨てまくった。

ここで僕は日本から持ってきた服や、洗面道具のほとんどを失った。

破天荒の極み。

捨ててはカウンターで重量測定をし、

そのたびに
「Overweight.」
冷たく言い放つフィリピーナグランドスタッフに怒りを覚えながらも、
てか何度かバトりながも。

なんとか通過した。

預入荷物は軽く、手持ちのリュックは肩が取れそうなくらい重い。

もう搭乗を待つ出国前のエリアにつく頃には、
汗はびしょびしょ、気力もなくなり放心状態。

しかも形態の充電も残り10%だ。。。


そしてまた悲劇が。

「台風の影響で飛行機が大幅遅延確定。」

神を僕を見放したのかな?

そんなことを考えていた。

問題は、
僕の財布にはフィリピンペソがない。

何も食べれず、飲めないのだ。

空港のWi-Fiを使って迎えに来る学校スタッフに遅れる旨を伝え、
僕のiphoneは静かに息を引き取った。

飲まず食わずで6時間が経過したころ、
僕は重くなったリュックを強く抱きしめ、
人けのない搭乗口の椅子で寝ていた。

外は大雨、雷もしきりになっている。

空腹も峠を越え僕はLGのテレビに映るテレビを見つめていた。
内容を見てはいないし、見ても理解できない。

そう。
ただ見つめていた。

10時間は経過しただろうか。
やっとダバオ行きの飛行機が来た。

ついに船出の時だ。


「ありがとうニノイ・アキノ国際空港。」
「よろしくお願いしますダバオ」

1時間ほどでダバオに到着し、
無事、学校の日本人マネージャーと会えた。

彼は優しい笑顔でこちらを見つめ、
率先的に僕のスーツケースを引いてくれた。

彼はその時僕に、
「このスーツケース軽すぎません!?1カ月大丈夫ですか?」

「違います、重いのはこっちです」

そういうと僕はリュックを指さした。
事の成り行きを説明すると彼は爆笑していた。

~~~
結論、

僕のダバオ留学2か月を通し、
フィリピン生活は本当に刺激的だった。

英語の勉強はめちゃくちゃ楽しかったし、

モデルのフィリピン女性とも付き合ったし、
大学に出向いてバスケ交流をしたり、

聖地巡礼(キリスト教)もした。
ちなみに僕は無宗教。

そんなこんなで英語が話せることで、
世界中の人とつながれることを知り、

海外へと興味をもつきっかけともなった。

~~~

帰国後


バックパッカーも始め、
計20か国程を回り、

帰国時にはTOEICが400点→850にもなり、
大学では一番上のクラスの英語クラスへと上り詰めた。

大学の授業にはほとんど出ていなかったが、
今の生き方にも影響する価値観をはぐくむことができた。

そして、お金も底をつき、
海外熱も少し引いたところで、

この後
僕は再び大きいショックをうけることになる。

~~~

久しぶりに高校時代の友人、
H君と再会した。

しばらくぶりの再開だったので、
お互いに思い出話に花を咲かせ、

お酒も少し回ったところで、

将来の生き方など、
少し真剣味のある話題へと転じてきた。

そして食事をしていると彼の口からぼそりと一言

「俺、国連のインターンに選ばれたんだ。」

「な..なぬぅ!?」

詳しく聞けば東大生を含む全国の優秀な学生と選考に打ち勝ち、
日本から2人だけ選ばれたうちの1人だという。

凄すぎますやん。

アメリカのワシントンで、世界中の現役トップ大学生と
インターンで時間を共に過ごす予定の彼の目は輝いていた。

一方僕は、
それなりに充実した時間を二年時までには過ごしてきたつもりだったが、
Hがそこまで努力をしていた事を知ると、

ただ遊んでいただけに思えてきた。
(実際そうだけど)

また焦ってきた

人と比べることは良くないけど、
どうしても彼とは近しかっただけに

比較してしまうのだ。

そこでまた衝動的に負けたくない思いから、
僕はググり始めた。

海外インターン_大学生_格安

いろいろ検索してみると、
株式会社旅武者という会社がやっている、
武者修行という海外ビジネスインターンシップを見つけた。

今でこそ結構認知されているインターンだが、
当時はあまり知られておらず、

なんなら僕は怪しいとさえ思っていたが、
ノリでオリエンテーションに参加し、

ノリで本参加を決めた。
だって友人はワシントンだし、

日本でうかうかしてたら負けた気がするから。


話を戻そう

インターン場所はベトナムのダナンの近く、ホイアンである。

期間は1週間、
チーム数は5,6チームはあったかな。
大学はマーチ以下というか、

早慶以下はかなり少数で、
学歴コンプレックスを感じずにはいられなかった。

しかしながら、
ここでの経験は現在にも繋がるような刺激の毎日だ。

まずルームメイトの中国人留学生S君、
みんなが夜通しで作成し、

発表にぎりぎり間に合わせるようなプレゼン資料を

数時間であっという間に完成させ、
涼しい顔して外資系のES(エントリーシート)の作成をしていた。

僕のチームは意見が割れて喧嘩ばかりだったので、
中々まとまりが悪く、

やっとこさ作業が落ち着いて明け方に部屋へ戻ると、
S君はいつも熟睡していた。

インターン以外では就活話に花が咲いており、

当時大学3年生の僕は
「レベルの高い学生はもう就活を始めているのか!」と
身を置く環境で周りの行動も、情報量も全く違うことに気づいた。

一方で、
どんなに学歴が高くとも、ビジネスにおいては皆素人同然で、
今思えばビジネスプランも本当にひどかったと思う。

それでも、ここでの実践的なビジネス経験は辛くも楽しく、
また、チームメイトだけでなく、

自分自身と向き合ういいきっかけになった。

株式会社旅武者の創業者の山口和也社長は、
難病との闘病の末、お亡くなりになられた。

チャンスと進むべき道を示唆してきた彼の意志は、
多くの学生を鼓舞し続けている。

インターンからの帰国後、

僕は国際的に調整したい意識が芽生え
外資系をメインに就活をはじめ、

外資系消費財メーカー、外資系コンサル会社など計2社に
内定をもらうことができた。

同じ大学の大学生のほとんどはまだスーツすら着てなかったと思う。

それからというものの、
僕は日系企業の就活が始まるころには暇を持て余し、
スモールビジネスを始めたいと、あれこれググり始めた。

そんな時、
ある人物からFacebookのメッセンジャー宛にメッセージが届いた。

この方をMさんとしよう。

何度かやり取りし、
「カフェでお話しませんか?」

そう切り出してきたので、

人との出会いで人生を変えてきた僕は、
1つ返事でOKした。

え!!これってよく聞くあれですやん!
ねずみ講の誘い方ですやん!

当時のピュアピュアのキラキラな僕は、
そんなことはつゆ知らず、

新宿のルノアールで待ち合わせし、
色々話していると意気投合した。

そして次の再開時には、
ボス的な人が登場した。

確定演出キタぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!

そしてどうなったか?

サクッと入会しました^^

このビジネスはいわゆるMLMというやつで、
違法ではないのですが、

ブログビジネス教えます的な感じで、
一定の過程を終えると、見込まれた人は運営側に回る仕組みで、
つまり勧誘をかける側へと切り替わる。

実際若くして稼いでる人も多く、
賊っぽい人もいないので変に魅了され、

僕は外資系企業の内定を蹴ってしまった。
(このオオバカムスコがぁ)

この辺で少し崩れた人生に進んでいたが、
一方でバスケコーチングもしたりと楽しんでもいた。
~~~

あまりにも長いときついと思うので、

(省略開始)

この後の僕はヨーロッパをバックパッカー
→移住したいと思いすし職人を目指すも、よく聞く10年下積みを目の当たりにし断念→第二新卒就活してメガベンチャーから内定をもらう。

<1社目>
午前中はテレアポ、各海外支社に送る資料作成、
本社訪問、事業企画もたまにやったりと

このベンチャーでは毎朝9時~朝の3時ぐらいまで働いた。

たびたび体をおかしくしながらも、
同僚がバタバタと辞めていく中生き残り、

なんと
ニューヨーク・マンハッタン駐在をさせてもらえることに

~~~
その後、有給を消化してこいと言われたので、
ベトナムへ2週間ほどビジネス観光目的で渡越し、

偶然出会ったある社長と意気投合し、
ヘッドハンティングされる。

帰国後、辞表を提出。
(大変ご迷惑をお掛けしてしまい申し訳ございませんでした)

~~~
<2社目>
ヘッドハンティングしてくれた社長は
表面は良いものの、かなりの悪代官で
・横領
・セクハラ
・嘘
パーフェクト達成しているような人物であることが発覚。

主力社員が一斉離職で事業閉鎖、
残って再起しようとした自分にまで嘘をまた吹かしてきたので。

僕も離職

数か月後倒産したらしい。

あ、でもこの時ユーチューブを始める
~~~

<3社目・現在>

海外人材・貿易を扱う会社で
コロナのあおりを受けながらも働いています。
ー--
具体的には、
・外国人就労(技人国・特定技能・技能実習)のサポート
・組合の立ち上げ
・海外貿易

(副業)
・Youtube→登録者計7万人
チャンネル名 : OTTA , Haii
・Tiktok→登録者計20万人
ID : @thanhhair22 , @ottavlog)

4チャンネルとも運営は僕がやっていて、数万フォロワーくらいなら再現性は結構高いです。

外国人向けのSNS媒体の立ち上げで法人アカウントのコンサルもやってみたいな、やるかはわからんが。

幸いNHKや都道府県の、官公庁、上場・未上場企業などからも
案件を頂けるようになってきたので、

それなりに稼げて仕事も楽しいので大変感謝しています
ー--

という感じで、

省略して伝えれなかった部分も結構ありますが、

激動な人生でした。
また別の機会に詳細は話そうと思います。

まさかこうして自分が外国人の人たちの就労を助けるような仕事をするとは、数年前は1ミリも想像できなかったですが、

なんやかんやで行政書士試験の結果次第では、
来年春前には開業も考えてます。
(執筆当時2021/12/07)


それ以外にも、

日越間に携わるビジネスもどんどん手掛けたいし、
日越間の架け橋のような存在になりたいです。

なぜベトナムか?
それもまた別の機会に。

今後この25歳の青年がどうなっていくのか?
またどん底に落ちていくのか?(笑)


その成長や失敗の過程をリアルタイムでつらつらと書いていく予定ですので、フォローしてもらえると嬉しいです。

長文失礼

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