不合格体験記

世の中には「合格体験記」というものは多く見ますが、反対に「不合格体験記」を見ることは少ないかもしれません。

学校の進路指導では、大体「センター試験は悪かったけど、諦めずに頑張ったら2次試験で逆転して合格出来ました」「部活と勉強を両立させて、悔いのない学校生活を送れました」といったサクセスストーリーが多く示されます。

では、それらのサクセスストーリーの裏に、上手くいかなかった人達は何人いるでしょうか。恐らく、正確な数は分からないでしょう。進路指導の集会の類では、あまり失敗体験は聞きません。何故なら、成功体験のみに焦点を当てるからです。

ならば、1人くらい失敗体験を記録として残しておいても良いはず。そう思って書きました、不合格体験記を。

高校入試

幼少期、私は予定より早く産まれたせいか、体は弱く、発達も遅れており、頻繁に病院に行っていました。習い事等も満足に出来ない状況で、特に取柄も思いつかず、また、イジメられることも多く、周囲との違いに劣等感を抱えました。加えて、幼少期に両親が離婚したこともあり、大家族への憧れも相まって、孤立感を抱きました。先ほどの代償云々の視点で考えると、当時の私は「失う・払える代償(もの)を大して持っていない」と言えます。

中3では「いじられキャラ」でした。いじられキャラには親しみが込められており、ある程度は人間関係も良好でした。マズローの欲求階層説では、欲求は階層構造を成し、下層の欲求が満たされないと上層の欲求は満たされません。勉強は最上層の「自己実現欲求」に該当し、勉強の成績向上には、下層の所属欲求や承認所属が満たされる必要があります。「いじられキャラ」として、ある程度は所属欲求や承認所属が満たされたため、勉強が出来て、特色選抜も合格しました。

マズローの欲求階層説

ただ、高校で学習する内容が入試で出題されるような、難関私立高校には不合格であり、それらに合格した「努力だけでは超えられない他者」への劣等感も抱きました。これが、人生で最初の不合格になりました。

大学入試

高1では、気が付いたらクラスで孤立していました。周囲は私を見てくれない。人と関わらなければ、自分に居場所が無いことを悟りました。そして、人と関わるため、まずは目立って周囲からの注目を得ようと考えました。

高2以降、無理にでも人と関わり、明るく振る舞い、心身を酷使し続けました。それでも所属欲求や承認所属が満たされないため、高1と同様、勉強も出来ません。気付かぬうちに、人間関係のために学力が犠牲になりました。大学受験でも妥協せざるを得ず、今の大学に至ります。

勉強して成績が伸びて、惜しくも不合格だったのであれば、まだ納得は出来ます。しかし、どれだけ勉強しても、その努力という代償に見合う対価が得られず、勉強していない者と同じ扱いを受ける。努力したのに学歴厨には馬鹿にされ、見下される。屈辱的ですね。

部活(高校)

私は空手道部に所属していました。
空手を始めた理由は「運動経験を付けた方が承認されやすい」「文化部より運動部の方がスクールカーストの上位に位置する場合が多く、学校での居場所を作りやすくなる」というものです。ただ、部活は近所の道場と流派が異なっており、幼少期に体が弱く、満足に習い事が出来なかったとはいえ、「本来なら道場の流派なのに」「道場の試合にも出場できるはずなのに」という違和感もありました。

部活で良い成績を残せば周囲から承認/称賛されるのでは無いかと考え、その思いは後に「良い成績を残さなければ、周囲から承認/称賛されず、自分の居場所も無くなり、存在価値の証明出来ない」という強迫概念に変化しました。また、部活を引退すれば、その機会が無くなるので、引退を先延ばしにしようとしました。そのため、物理的に部活に参加するのが不可能になるまで、部活に参加出来る時は参加し続け、試合にも出場し続けました。

SNS

また、SNSでは自分だけフォローバックされない仲間外れ・イジメに遭いました。フォローしただけで、フォローが外される、フォローリクエストが拒否される、ブロックされる。何を犠牲にしても、何人もの人とは繋がれたと言えません。

何故そんな悪行が出来るのか、加害者の人間性を疑いつつ、他の人は何故SNSで差別・排除されないのか疑問に思います。いずれにせよ、SNSに限定せず、加害者のイジメ行為は許されませんし、相応の償いを行なわないのは筋が通っていません。

学校生活にロクな思い出が無くて、たとえ行きたくなくても、可能な限り同窓会の類のイベントに出席するのも、仲良くない者にも歩み寄る姿勢を示し、加害者が償う機会や、因縁を解決する機会を設けるためです。

私は他者を選り好みせず、理不尽に排除・差別しないと誓い、分け隔てなくフォローバックしました。しかし、怪しい勧誘系・出会い系と思われるアカウントまで嫌々フォローバックすると、案の定DMで勧誘され、TLに勧誘が流れてきました。

私は、その度にミュートし、毎度の如く誘いを断っていました。フォローバック出来ないアカウントに対しては、DMで誰か聞いていました。ところが、勧誘・出会い系アカウントにDMで誰か聞いても、既読無視したり、DMが来た途端ブロックしたり、フォローを外したりしていました。

また、何回断っても執拗に勧誘してくるアカウントも存在しました。流石に対応出来なくなり、ストーリーで詫びてからフォローを外しました。今思えば、勧誘・出会い系への対応に時間を取られ過ぎました。また、それらへの対応はストレスが溜まりました。TLに勧誘・出会い系の投稿が流れてくるのが嫌になって、一度、しばらくログアウトした時期もありました。

大学院入試で上手くいかなかった理由の1つも、SNSの勧誘であると言えるでしょう。時間と人生を返せ。

SNSでは危険な奴もクソみたいな奴もいます。そもそも、SNSではプロフィールに虚偽の情報を載せているかもしれないし、仮にプロフィールの情報が真実でも、相手の人間性までは分からない。SNSで人と繋がる意味も大きいですが、そこには限度が存在します。SNSの匿名性を悪用して、他者を攻撃する輩も存在します。匿名性は自由な部分も持っていますが、そのような危険性も兼ね備えています。

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https://note.com/otsuka_shonen/n/n410587fbd088?sub_rt=share_pw

他者を虐げておいて、何の償いもしないのでは、筋が通っていません。そのため、他者を大切にしないようなクズが相手でも、奴等に筋を通させるべく、関わりを持とうとしていました。自分に「クズは見捨てる」くらいの冷酷さがあれば、結果は少しはマシだったかもしれません。

大学院入試

私は大学院進学を考えました。専門性や学歴を高め、周囲からの承認/称賛を得て、自分を虐げる者より優位に立つためです。高校で理系だったこともあり、当初は理系の大学院への進学を希望し、化学系・生物系への進学を希望しました(なお、工学部に進学する可能性が存在したため、高校は物理選択でした)。しかし、教員養成課程と理系の大学院では隔たりが大きいため、まだ学部での勉強内容に近い教育学研究科への進学を検討しました。

それでも、教員養成課程と教育学研究科には隔たりが存在しました。私が在籍する教員養成課程は、読んで字の如く「教員を養成する」ことを目的としており、教員以外の進路を考えている者への支援が少なすぎます。先生方に個人的に指導して頂くことはあり、そこは大変感謝していますが、大学組織としての支援が少なすぎます。授業内容も教職に就くことを前提としており、大学院への進学者向けではありません。そのため、大学院進学を前提とする教育を受けてきた内部進学者と比較して、3年分の経験値が不足し、研究計画書や、問題への回答の内容が上っ面になります。

そこそこの成績を大学で取得し、取得出来そうな資格は取得し、単位も特に落とさずに来ており、大学では私のことを割と賢いと思っていた人もいたようです。そのため、ちゃんと努力という代償を払えば、院試も報われる気がしていました。しかし、現実は先述の通り。やはり、教員養成課程に進学したことと、教員にならないにせよ、そこで教員になるための勉強をした事実と経験の積み重ねは簡単には覆らないようです。

加えて、過去の孤立経験は一生消えない傷を残し、それは所属欲求や承認所属に悪影響を及ぼし続けます。過去は現在に影響し続けます。学力低下等の厳しい条件も存在しましたが、「浪人したくない」という理由だけで進路を選択した、当時の付けが回ったようです。自分で払ってしまった代償が、尾を引いているのです。別の大学・学部に進学した世界線がどんな感じなのかは分かりませんが。

まぁ教員養成課程に進学したことで取得出来た資格もあります。もう少し成績が良ければ、履修の上限も緩和され、より多くの資格が取得出来たかもしれませんが。また、今の大学に入学したから出来た関係性も存在します。

部活(大学)

幼少期からの練習経験の積み重ねが不足し、あまり上手くいきません。大学で空手道部に入部したのは、経験値のある競技の方が結果を残しやすく、周囲からの承認/称賛も得やすいと考えたためです。ここでも、惨めな過去を否定する意味合いが込められています。しかし、案の定、過去は否定出来ません。

また、虐げられた経験から「人を傷つけたくない」「人に傷つけられたくない」と感じるようになり、それは組手(相手を攻撃して得点を取りあう種目)の妨げになりました。最後の方は完全に形(仮想の相手を想定して演武する種目)が専門でした。一方で、自分を虐げ排除する者に対しては、問い詰め、何かしらの償いをさせることで充足感が得られると考えました。人と関わりたい自分も、人を信じられない自分も、人を恨み暴走する自分もいます。これも過去の積み重ねの影響でしょう。

そんな部活の中で、競技以外に上達したものがあります。電車での時間の使い方です。大学の部活は、在籍する学部があるキャンパスとは異なるキャンパスで活動しており、キャンパス間の移動では1時間弱は電車に乗っていました。

1回生や2回生の頃は、その電車での移動時間が退屈で、何をすれば良いのかも分かりませんでした。本を読むと酔い、スマホを使いすぎると容量が減る。うたた寝程度ならまだしも、寝顔を晒すのも気が引けるので熟睡するのも無し。一緒に電車に乗っている知り合いがいれば喋れば良いのですが、知り合いがいない場合、あるいは知り合いがいても別のことをやりたがっている場合、ホントに暇です。妙な孤独感と虚無さと向き合いながら、電車に乗っていました。

3回生以降は、流石に電車に慣れたのか、電車に乗る時のしんどさは軽減されていきました。2回生の秋学期に東京で試合があった時、授業に出席するため、翌朝に1人で新幹線に乗って帰ってきたこと。その車窓から富士山や海が見えたこと。その後、何回か新幹線で旅行に行ったこと。電車に乗るのに慣れていったのでしょう。

総括

安易に何かを犠牲にするな

不合格になる要因は様々です。勉強方法が自分に合っていなかったのかもしれませんし、単純に勉強時間が足りなかった人もいるでしょう。当日に出題された問題との相性等、時の運かもしれません。

ただ、自分の不合格体験を通して、部活や人間関係等、「勉強以外のことでも充実感が得られているか」ということも、重要な要素だと考えています。
限られた時間を活用して、折り合いを付けつつも、全てに対して全力で取り組み、それらが満たされた者は、受験でも強いです。
だから、自分は「勉強で忙しいから部活を辞める」といったことは全く勧めません。ずっと勉強ばかりでは正直しんどいです。気分転換して、ストレスを発散するのも大切です。(自分は気分転換が下手すぎました)

ただ、「何かを得るために犠牲を払う」ということも、重要になるかもしれません。
しかし、何かを得るためには同等の代償が必要になりますが、どの程度の量/種類の代償を払えばよいか分からない場合も多いです。
代償の量や種類を間違えると、代償を払っても欲しいモノが得られず、無駄に代償を払うことになります。
得たい対象が重大過ぎて、等価の代償が存在しない場合もあります。知らず知らずのうちに代償を払う恐れもあります。

代償を払っても欲しいものが得られない状況では、無駄に代償を払うことになり、何かを失うだけで何も得られません。それが嫌で、私は本当に必要な代償を求めていました。しかし、私が得たいモノは、「人との繋がり」や「過去の否定」といった、代償が存在しないはずのモノでした。

過去の選択ミスは命取り

忌まわしい過去を否定したくても、過去は現在に影響し続けます。過去の積み重ねで人格や価値観は変化するし、経験値が不足する分野では不利になります。過去を否定し、人と繋がり、周囲の承認/称賛を得るべく努力しても、残るのは超えられない他者への劣等感と、「承認/称賛に値する結果を残せなければ自分の居場所/存在価値が無い」という強迫概念です。

進路選択や受験科目の選択等、受験において何かを選択する機会は多いです。「流される」「その場しのぎ」「妥協」「情報不足」といった理由で選択を誤っても、やり直しが出来ないまま物事が進みます。その過去の選択を打ち消すことは、不可能に近いでしょう。

ただ、過去の否定は出来ませんが、良い経験を追加することや、新たなコミュニティに加わることは出来ます。幸せとは忌まわしい過去の完全否定では無く、過去の因縁や理不尽を解決し、現在を改善することでは無いでしょうか。


この不合格体験記を見てくれた受験生は、自分を反面教師にして頑張って下さい。

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