不便で不自由だが不幸では無いかもしれない動物達〜ヴィーガンと動物飼育の問題に際して〜

こんな言葉がある。

障害は不便だが不幸では無い

ヘレン・ケラー

また、こんな言葉もある。

不自由である事と不幸である事は
イコールじゃない

哀れに思われるいわれは無いよ!

「鋼の錬金術師」アルフォンス・エルリック

これらの言葉は、不自由や不便さが、当人の不幸に直結するとは限らないことを示している。不便で不自由な者が不幸なのかは、時と場合による。本人の感じ方等、様々な要因によって変化する。それなのに、「この状態だから不幸だ」と一般化して決めつけるのは、烏滸がましいでは無いか。

今回は、動物の飼育や利用に極端に反対する「ヴィーガン」という人達も居る中、動物飼育について考えてみました。


生まれてきても不幸なのか

例えば、動物飼育の現場では、飼育する費用やスペース等の問題から、動物の繁殖が制限される場合もある。

「どうせ生まれてきても不幸になる」という考え方なのだろうか。たしかに、資金難や飼育スペースが狭い状況では、動物は不自由かもしれないし、それが不幸に繋がるかもしれない。しかし、生まれてくること、生きていること自体を不幸だと考えているのだとすれば、それは筋違い。

命の誕生なんだから祝えよ。

人間の都合で、この世に生を受けることが許されない仔に、子孫を残すことが許されない親。動物の生きる権利や産む権利を、人間の傲慢な事情で奪う。それはそれで不幸な気がする。

新たな命を許さず、飼育する個体群の全滅を肯定し促進する、この風潮は許し難い。

ただ、どうせ生まれてくるのなら、幸せにする義務は発生する。愛情責任を持って接するべき。愛情責任を持って飼育され、動物福祉にも配慮された状態であれば、動物が幸せになる可能性も高まるだろう。

「好きなだけ生まれてこい。皆んな幸せにしてやる。」そんな綺麗事の理想論が実行出来る日は、果たして訪れるのだろうか。


飼育個体は不幸なのか

動物飼育に関して、「動物園や水族館の飼育個体は不幸なのでは無いか」と言われることもある。飼育環境は自然環境と比較して狭いことや、人による管理があること等が、理由として挙げられる。

しかし、自然環境においては、餌の確保や天敵対策等、弱肉強食で厳しい生存競争が存在し、個体の生命そのものが脅かされる場合も少なく無い。しかも、自然界では全ての不利益は自己責任であり、放任主義である。それはそれで不幸。

一方、動物園や水族館といった飼育環境にいる個体は、餌は飼育員から貰えるし、天敵もいない。自然環境よりは狭いものの、動物福祉に最大限に配慮された施設であれば、ある程度は快適に暮らせるかもしれない。

野生か飼育か、どっちが良いかなんて分からない。本人(?)次第。

そもそも、動物心理の専門家でも無いので、飼育個体が抱いている感情なんて、推測でしか分からない。それを「飼育個体は不自由だし、不幸に違いない」と勝手に決めつけて押し付けるのは筋が違う。他者に考えを押し付けるなら、それ相応の根拠や正当性が必要だし、それが無いなら、相応の処罰を受けるべき。


飼育は止められない

生存競争の厳しい自然界に動物を逃しても、人間に慣れている飼育個体が生き延びるのは難しいし、最悪の場合、元飼育個体は人里近くに出て来てトラブルを起こし、人を警戒しない動物達による獣害が多発し、人間生活に悪影響を及ぼす。逃す場所によっては、生態系への悪影響も危惧される。

さらに、動物園や水族館にも「研究」や「種の保全」といった役割が存在する以上、飼育個体を野生に逃すわけにもいかないし、動物園や水族館を廃止するわけにもいかない。絶滅危惧種の繁殖や、怪我・病気の個体を保護するのも、動物園や水族館の役割なので。

そもそも、動物飼育によって人間生活が支えられている側面もあるのだから、(動物福祉への配慮は必要不可欠だが、)動物の飼育が出来なくなったら、下手すりゃ人類は滅ぶ。動物の飼育を始めてしまった以上、もう引き返せない。その責任は果たすべき。出来ることは、動物福祉に最大限に配慮して、飼育個体が幸せに暮らせるようにすること。

ヴィーガン各位、動物飼育を止めさせたいなら、動物飼育を非難・攻撃するのでは無く、その代替え案(動物が暮らす場所、人工肉、畜産業者や漁師の再就職先etc.)を示し、それらの普及・実用化に努めて下さい。自分達の主張を他者に押し付けるだけでは、何も解決しません。


終わりに

愛なき解放(野生)か、愛ある束縛(飼育)か、どちらが良いと感じるかは人によって異なるだろう。ただ言えることは「束縛からの解放が幸せだとは限らない」ということ。「拘束」の対極に位置するものが「孤立」や「放任」である可能性も存在する。

社会学の例だが、デュルケムの「自殺論」でも、自殺は社会からの拘束が強いことに起因するものも、弱いことに起因するものも存在するとしているらしい。人間社会の現象を、人間以外の動物に当てはめるのが適切かは分からない。ただ、拘束が強い場合と弱い場合の双方で、それぞれ異なる辛い現実が待っているという点では、動物飼育の件は、デュルケムの自殺論とも近い印象。

飼育個体の題材は、学校の道徳とかでも扱われそうだけど、教員の方々には、不便・不自由が不幸に直結しない可能性も考慮して頂きたい。

そして、物事を複数の側面から、現実に即して考えることが出来る人材を育てて欲しい。

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