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マルティヌスの希望

マルティヌスは地下室の鍵をズボンのポケットに仕舞い込むと、地上の空気を胸いっぱい吸い込んだ。鍵はもう捨ててしまっていいと彼は考えていた。

赤錆びた色の空には、数機のプロペラ機がそれぞれの空路を急いでいた。飛行免許を取得できていたら、彼も配達士として今ごろ空を飛んでいるだろう。生まれつき左目に傷があり、視界にわずかな歪みをもつマルティヌスは、飛行士試験の事前健康診断で失格となっていた。

地下室からの階段を昇りきると、すぐ右に折れたところに農作業小屋がある。耕作機と並んでずらりと並ぶ麻袋には、トウモロコシの種が詰まっている。マルティヌスが種袋に耳を寄せると、中からごそごそと無数の音がした。早く蒔いてしまわないと麻袋の中で発芽しだす勢いだった。

「マーティン!地下室の水瓶の片づけは終わったのか?」と小屋の外から彼の父親の怒鳴り声が聞こえた。

水瓶なんてもう真っ平御免だとぶつぶつ小声で呟いてから、「終わったよ!」と父親に届くように答えた。

なにか言い返されるだろうと彼は用心して、耳を澄まして待っていた。聞こえてくるのはプロペラ機のか細いプロペラ音と、肥料に目をつけたハエの羽音ばかりだった。

*

いつになったら一人前の火星チルドレンになれるのだろう、とマルティヌスは泣きたい気分だった。いちいち指図されるのは、もう御免だ。空を飛ぶことが叶わなくても、自分だけの手綱を思うように握りしめていたかった。

彼にとって耕作地の開拓は唯一のやりがいある仕事だった。痩せた荒地を耕作機で掘り起こして、堆肥をふんだんに混ぜ合わせて寝かせると、見違えるように大地は息を吹き返す。それなのに父親は開拓には無関心で、むしろ面倒をみるのは厄介だと不満がった。父親はマルティヌスに水瓶の掃除ばかり言いつけた。

水はいつも争いの元になっていた。父親に指図されては鬱屈とした気分になるのも、近隣の農家との水の権利にまつわるいざこざも、地域同士の不和の起爆剤になっているのも、常に水をめぐってのことだった。

小屋の外を歩く足音に気づいて、マルティヌスは身構えた。足音は小屋の入口で消えた。しばらく待っても誰も姿を現さなかった。気になって彼のほうから小屋の外に出てみた。人の姿はどこにも見当たらず、隠れている気配もなかった。

*

家の中から棚を開閉させる荒々しい音が聞こえた。マルティヌスの父親がなにかを動かした音にちがいない。そろそろ正午だった。食事の支度をしないとまた父親に叱られてしまう。彼は重い足取りで帰宅した。

開け放したままの玄関を入ると、奥の空気は冷たく静かだった。開け放された窓から入ってくるプロペラ機の音が、壁に跳ね返って聞こえた。

「マーティン、魚料理は飽きたよ」とさらに奥のリビングから声がした。魚はいつも川で釣ってきて調理して食べていた。

「父さん、それじゃ今日のお昼は卵料理にする」という息子の返事に、なんの返事もなかった。玉葱と挽肉で大きめのオムレツを作ると、一皿にサラダ菜といっしょに盛りつけた。

食事に呼んでも、父親は姿を現さなかった。それどころか「やっぱり魚でなくちゃ喉を通らない」と言って、ふてくされて書斎に閉じこもったまま出てこない様子だった。せっかくのオムレツが冷めると味が落ちるので、マルティヌスがひとりで全部平らげた。もし、父親が部屋から出てきて不平をぶつけてきたら、そのとき作り直すつもりでいた。

*

「ねえ父さん」と午後の部屋でマルティヌスは、奥の部屋にいる父親に向けて、思い切って話した。「地下室の鍵は、鍵穴ごと壊して捨ててしまおうと思うんだけど、いいかな?」

書斎からの返事はなかった。父親の返事は最初から返ってこないと息子にわかっていた。それでも半時間、辛抱強く待った。椅子を引く音や足音が聞こえてくるだけで、父親は姿もみせなかった。奥にいる彼が不機嫌だということはわかりきっていた。

さらに半時間待った。今日はまだトウモロコシの種を蒔くには暑すぎたし、余った時間を農地開拓にあてるにしても紫外線量が許容値を超えて作業を不可能にしていた。相変わらずプロペラ機の行き交う音だけが部屋にこだました。

マルティヌスの希望通り、地下室を開放してしまうと、いつでも誰でも水瓶に触ることができた。水は財産だと言い張る父親にとっては、忌み嫌う考え方だろう。息子がそう主張する理由は、水瓶を自由にして、いろいろな意味で風通しを良くしたかったことにあった。隠して守りとおすからこそ、争いごとが絶えない悪循環が断ち切れずにいる。そうマルティヌスは思い続けてきた。

ここまで自分の主張を押し通したことは、マルティヌスにとって生まれて初めての経験だった。だが、いつまで経っても父親の返事はなかった。

もう、そろそろいいだろう。マルティヌスは鍵をズボンのポケットから取り出した。父親の決断を待っていても仕方がないし、返事がない以上は容認と判断するのが妥当だと考えていた。

マルティヌスは地下室の鍵を永遠に開放するため、ためらうことなく椅子から立ち上がった。


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