見出し画像

もう呼び鈴は鳴らさない

砂利だらけの道をゆくと、荒野のなかにたった一軒だけ、風景のなかに溶け込んだ、その古い家が現れる。その家には誰も住んでいないようだった。その風情は、どこかカリフォルニアの海沿いの雰囲気を漂わせていた。

車を停めて呼び鈴を鳴らしても、いつものように反応はなかった。ひとつだけ腑に落ちないことがあった。それは、定期的に送られてくる郵便物が、いつも受取り箱から消えていることだった。

きっと誰か住んでいるのか、または通っているのに違いない。だから、いつかは顔を合わせることもあるだろう。その程度の希望を抱いて、だいたい月に一度程度、様子を窺うことにしていた。

こうした空き家は、近年の火星に増えるようになった。なかには、元の所有者の記録すらなく、宙ぶらりんで不可解な物件も数多く含まれていた。その家もまた、誰がいつから住んでいるのかわからなかった。

その家に灯りが点いていた、という噂も聞かない。子どもの遊ぶ声がしたという噂も聞かない。いつ見ても庭は雑草がきれいに刈られていて、芝生の手入れが行き届き、壁をツタの蔓が覆い尽くすことも、暑さに立ち枯れることもない。

住人の姿はなくても家屋が廃れていなければ構わない、誰かに守られているのであれば問題ない。そう誰もが思った。そう感じさせる何かが、その家にあった。家そのものが生きていて、息をして、何かを考えている気がした。

*

無口な惑星。それが火星のもうひとつの名前だった。

住み慣れてしまうと、静かであることは慣れてしまう。この星に騒々しさは少しも似合わない。マスコミではゴシップネタは流行らないし、国際情勢では国と国でいがみ合って殺し合うことも好まない。地球からすれば嘘みたいに平穏すぎて、感覚が麻痺することも否めなかった。

それがいいからという理由で移り住んでくる人は、それほど居ない。

賑やかだった人も、この星のもつオーラにオブラートされて、口数が少なくなっている。競うことが好きだった人も、堅実で地道な積み重ねをするようになる。

火星が競争社会になると騒いでいたのは、地球のマスコミだけだった。

*

ある日、すべての惑星不動産の管理体制の強化が命じられた。木星の衛星エウロパで発覚した、不正な不動産取引が原因だった。

混乱も後ろめたさもなかった火星にとって、いい迷惑だった。これまで平穏にスルーされてきた空き家は、一軒づつ所有者を特定できなければ解体処分するように命じられた。

藪の中を突くのは、この星では好ましくない気がしてならなかった。

それでも、我々は決断をしなければならず、調査チームを結成した。悲しい気持ちで、地図を広げて荒野を覗き込んでいると、電話が鳴った。荒野の近隣住民からの異常を知らせる電話だった。荒野が消えたと騒いでいた。

その家に向かうと、いつもの荒野には穏やかな海が広がっていた。その家は海岸沿いの潮風を受けて、いつも閉ざされている窓は開け放されていた。レースのカーテンがひらめいている様子も見えた。

さらに近づくと、窓からテーブルを囲む人の様子が見えた。顔はひらめくカーテンのために見えなかった。大きな袖の服を着た彼らは、たくさんの皿に盛られた料理を楽しんでいた。談笑もしている様子で、大きな袖が上下左右に揺れていた。

調査隊はすぐに引き返すことにした。

少なくとも我々の立ち入る隙は無いように思われた。彼らはとても幸せそうで、ずっと昔からそこに暮らしている。地球そっくりの旧式の家を造り、いつもは隠れている海の近くで、波の穏やかな日は泳いだり、晴れた日は庭でバーベキューを楽しむのだろう。

我々は後ろを振り返らないように、彼らの姿が消えてしまわないように、海がそのまま広がっているうちに、帰り道を急いだ。

もう、その家の呼び鈴を鳴らすことはないだろう。彼らはいつも幸せで、だからこそ我々も平穏に暮らすことができるのだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?