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火星社会を復興させた妻

マニュアルに従えば、ロケットはすぐに飛び立つべきだった。しかし、その判断は思わぬアクシデントによって妨げられた。発射ボタンを押す直前、ロケットの真下に何者かのいることを知らせるアラームが鳴り響いたのだ。

「誰だ?まだ乗り込んでいないのは?」とわたしは後ろを振り向いた。だが、わたしを含めた七名全員の乗組員が着席していた。

センサーはエラーを起こすこともある。だからといって、反応した原因の確認を怠ると、思わぬ大事故につながる可能性だってある。

すでに噴出するガスで屋外のカメラは曇っていた。何が反応しているのだろう?モニターに映し出されるものを逐一見逃すまいと、全員の視線が集中した。

「誰もいないですよ、機長」と誰かが口走ったとき、映像が乱れた。

「待て、今カメラの前を何かが横切った。レンズからすごく近い場所を」ノイズと見間違うほど一瞬だったが、柔らかい色の物体が行き来していた。スピーカーをオンにすると、奇妙な音も聞こえてきた。歌のようでもあり、微妙な抑揚のある音だった。

*

ここは火星の極冠だ。二酸化炭素さえも凍る極低温の環境だった。この探査の目的は定点観測装置の設置を兼ねた地質学調査だ。すでに二年前、第一回目の調査隊が訪れており、さらに翌年には第二回目の調査隊が入っていた。いずれの隊も現地で消息を絶った。彼らの失踪の原因はつかめず、世間ではさまざまな憶測を生んだ。今回の派遣にあたっては慎重な体制で臨んでいた。

「もう構わず行きましょうよ。気味が悪いですよ。機長」いつも臆病風を吹かす隊員カートが泣きそうな声で言った。

「アラームが解除されない限り、エンジンが稼働しない仕組みになっているんだ」とわたしは嘘をついた。

「僕が見てきましょう」といつもせっかちな隊員ジムが申し出た。「それじゃあ頼む」と言い切らないうちに、ジムは装備をつけて扉から出て行った。

「どうだ、ジム」

無線はつながっているはずだった。それなのにジムは無言だった。

「どうした?ジム」

屋外の通信設備に問題は見当たらない。カメラには相変わらず何かよくわからないものが、至近距離で行ったり来たりしていた。ジムの姿は写る気配が一向になかった。一歩でも機外に出たとすれば、ジムの姿が捉えられるはずだった。

*

機内があまりにも静かなのに気づいた。

後ろを振り向いたわたしは、「ああっ」と悲鳴とも絶叫とも異なる、これまで出したことのない呻き声をあげた。

後ろに並んでいた座席には誰も座っていなかった。操縦室にいるのはわたし一人だけ。そして扉の向こうには、第一回目の調査隊に参加していた、わたしの妻がいた。

「あなた、久しぶりね」と彼女は静かに言った。

それは何かが見せている幻影に違いないとすぐわかった。本当の妻はわたしのことを「あなた」とは呼ばず、常に名前で呼んでいたのだから。

「どうしたの?汗をかいているみたい」と言って、妻を名乗る別人の女がわたしの額に手のひらを置いた。粘液質の冷たい指だった。避けようとしても体が言うことを聞かなかった。

途端に、手のひらから送り込まれる凄まじい情報が、わたしのなかで波を作って押し寄せてきた。第一回目の調査隊がたどった顛末、その参加メンバーだった妻の消息、第一回調査隊を迎え入れた未知の生命体の社会構造、いくつもの層状に分かれた世界、その後の数十年の歴史のなかの妻のこと、すべてがまるで体験した既知の事柄のようにわたしの脳内に注ぎ込まれた。

「そういうことなの」と彼女は頷いた。その時点で彼女は妻でもなく、誰でもなく、そして誰でもある誰かになっていた。彼女の姿は火星人に近い何者かだとわたしは直感で悟った。「もうわたしを探さなくても大丈夫。わたしは今この世界のどこかにいるの。そして、時の経過とともに消えてゆく。気にしないで。あなたには元の世界に戻ってもらう」

そしその誰かよくわからない姿は変化を続け、やがて、せっかちなジムに落ち着いた。ジムは脱力して倒れ込んだ。また、別の層社会に飛ばされていたほかの隊員の姿も戻った。皆、放心状態でぐったりしていた。どの隊員も悪夢を見たと口々に訴えたが、どのような夢だったかを思い出せなかった。

*

その日を境にわたしは調査隊の職務を退くことを決意した。業務の引き継ぎを終わらせて、半年後には引退した。

わたしがあのとき知り得たことは、決して誰にも一切話さなかった。話したとしても、からかわれるか、病院を紹介されるだけだとわかっていた。

窓を開け放した家で、少しづつ絵を描いていく生活を始めた。わたしが見せられた幻影を、絵画のなかに留めたかった。

妻が別の世界で火星人の母と呼ばれ、火星各地で井戸を掘りあててゆくビジョンは、別の層社会ではすでに起きたことである。その功績は火星人社会の復興につながり、これまでの二億年に及ぶ長すぎる中世の終焉をもたらした。

その後の未来の火星に広がる都市のきらびやかさは、思い出すだけで目もくらむほど眩しかっただった。

わたしは彼女のことを誇りに思っている。

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