「火星天国」調査ファイル β(ベータ)
「火星天国」について聞いて回ってらっしゃるんですか?いや、いいんですけどね。僕はもう忘れてしまいたかっただけなので・・・。
そうですか。店舗が跡形もなく消えてしまったというわけですね。確かに、おかしな店でしたよ。僕があれほどリピしたことは、これまで一度も無かったことです。あの店に通うこと自体が、僕の日常生活のサイクルに組み込まれていたといっても、もはや過言ではないでしょう。
場所はご存じの通り、ローカルラジオ局「ようこそ、火星へ!」の大きな看板の裏側で、ひっそりと建つバラック小屋がそうでした。昭和風だとか西部風だとか粋な言われ方もしていましたが、僕にとってはただのオンボロ小屋でした。
おかしいですね。あなたがお持ちになった写真の建物には見覚えがありません。三階建てのコンクリートではなくて、木造の平屋でしたよ。
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僕は配送の仕事をしてる都合から、この店の噂を知りました。『好きなことを独り占めするのは勿体ない~火星天国へいらっしゃい』というキャッチフレーズのチラシが、街角に貼ってあったんです。
僕の好きなことですか?参りましたね。音楽、とりわけクラシックを好んで聴くのです。でも、誰も僕の趣味は知りません。話したところで火星では変人扱いされるだけです。
さっそく休みになると思い切って訪ねてみました。これまで誰とも共有せずに、地球から流れてくるラジオで聴き続けてきたアンダーグラウンド音楽のことを、喋ってみたかったんです。
店の中は質素な純喫茶風でした。え、マスターの顔立ちですか?なんですか、この潜水服姿のモンタージュ写真は?ははは、そんないで立ちでドリップしてるマスター、僕が見てみたいですね。実際には、五十歳前後の狸顔の男性でしたよ。顔立ちは、そうですね、あえて言えば『タクシードライバー』のロバート・デニーロをトム・クルーズが無理に真似をしているみたいな、どこまでが本気か分からなくなるような表情をいつも漂わせていました。いつも眉根を下げている雰囲気がありました。
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毎週週末になると「火星天国」に通うようになりました。平日になると落ち着かなくなって、土曜になるのが待ち遠しくなるほどでした。
家族からは変な目で見られていました。朝から晩まで、僕は家をあけて妻と子どもをほったらかしにしていました。
「火星天国」でのことですか?一番肝心なことのはずなのに、それがほとんど記憶に残っていなくて、お話しできることがほとんどないんです。喫茶店のカウンター越しにいるマスターやスタッフたちに、僕は音楽について話すのがすごく楽しかったはずなんですが、楽しかったことが底のない瓶のように抜け落ちちゃっているのです。
それでも帰り道はいつも上機嫌で、妻からはきっと浮気でもしてるんだと疑われるようになりました。
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とうとう僕は妻と弁護士(と名乗る女)から、カウンセリングを勧められました。週末どころか平日さえも、僕の「火星天国」通いがエスカレートしていたのです。仕事を無断欠勤することもあったようです。無断欠勤という自覚さえなくなっていたんですね。
弁護士から提示された写真を見た時、さすがにこれはまずいことになっていると気づきました。
僕は薄暗い「火星天国」の店内で見知らぬ火星人たちに取り囲まれ、拍手喝さいを受けているのです。火星人たちの目は漆のように怪しく光り、話が途切れると「もっと」とせがまれて気分よくしていたといいます。この光景を目にした弁護士は、浮気よりもさらに重い事態だと判断して、火星安全局に僕の名前を伏せて報告したそうです。
火星人には悪気はなかったのです。金銭目的でもなく、宗教勧誘でもなく、政治も結婚詐欺も絡んでいません。ただ、話をさせることが彼らの目的だっただけです。僕は話をすることに夢中になる、まさに中毒状態でした。世の中の暴君って、こういうものかもしれないですね。
僕にとっての「火星天国」通いは、得も言われぬ至福だったことは間違いありません。こんなことを言うと、担当医から怒られちゃいますが。
店に行かないようにしてからの半年は、配送の仕事も完全にアウトでした。外出することイコール「誰かに話を聞かせる」イコール「火星天国」経験でしたから、家から外出することもできず、最終的には入院を余儀なくされました。
相部屋の隣で寝ていた爺さんが「アンパンをどうしても食べたいから買ってきて、先生もええゆってたで」と耳にタコができるほど聞かされて、さすがに「火星天国」のことを忘れるペースをつかめるようになりました。
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もう「火星天国」はこりごりです。何か成し遂げられそうだという感覚と、達成感は忘れられないレベルではあるのですが。
至福はどうしても個人レベルで止まってしまうので、結局「火星小天国」で終わってしまう。僕のまわりに天国を形成することはできても、営業時間が終わると僕は追い出されてしまう。
火星人には本当に悪いけれど、少なくとも僕にとっての天国は定住できる現実的なもので、本当は構わないんだ。
たぶん、火星人たちにとっての自由な感覚は、僕たちの自由や至福と相容れない温かさに満ちたものなんだ。だから、僕は「火星天国」の抱える矛盾を忘れて、僕はもう一度火星人と向き合いたいと思っています。
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