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掘り起こされた手記

どうってことはない、火星はどこまで行っても火星だった。いつまで経っても変わらない状況を、わたしは毎日眺めているしかなかった。

酸素プラントの稼働状況はフル回転。農作業も順調。それ以外のあらゆるルーティンも、淡々と回している。報告だけを見渡せば、わたしたちの任務は完璧だった。

でも、わたしは作業班のパートナーから、感情的に忌避されていた。どんなにわたしが取り繕っても、どれだけ時間が経っても、相手はわたしを遠ざけたがった。当初はお互いの不得手な部分を、お互い補い合ってきたはずなのに。一度亀裂が入ると、修復がまるで効かない。

それは寛容さのない、パートナーの性格上の問題だった。以前にもそうしたトラブルを繰り返していたらしい。

今回のことは、この小さなたった二人きりのコミュニティにおいて、非常に危機的なことだ。

問題がなかなか解消しないと諦めたわたしは、基地の上司に報告した。基地はトラブルの件をまったく知らなかった。基地からは、調整の時間を欲しいと回答してきた。

*

ある日、数十キロ離れた別のプラントのスタッフから、パートナー宛に通信が入った。わたしはすぐに転送した。向こうの棟から、通信機器で話すパートナーの声が響いてきた。

「あいつの調子に引きずられたくない」「視界から消えれば、気が楽なのに」という言葉が断片的に響いてきた。まるでわたしに聞こえよがしに話しているみたいだった。

そのうちパートナーは挨拶すら返さなくなった。連絡事項さえ最低限に絞らせて、嫌そうに目を合わせずに要件を聞く。声を掛けても知らない振りをしばらく続けている。

つまり、共同作業を進める上では、とても残念な人だった。それでもなお、パートナーが基地から咎められずに済むのは、事務的なわたしの立場と違って、パートナーの研究職としての地位が特権として働くためだった。

わたしはこの不幸な状況を、淡々とルーティンだけこなすことで耐えた。耐えられなくなると、基地に連絡を入れた。パートナーは未だにトラブルを報告すらしていない。それはそれで大問題のはずだった。

*

時間と共に、コミュニケーションの破綻はさまざまな場所に綻びを作り始めた。それは当然の成り行きだった。

パートナーがわたしの名前の呼び方を意図的に変え始めたとき、共同作業者としてもう終わったと思った。スタッフ間で言い慣わしている敬称を捨て、「さん」に言い換えて嫌味のこもったアクセントをつけた。

やり方がすごくいやらしい。

昔、似たようなことを他の誰かにした経験があると、自慢げに話していたのを知っている。だからこそ、やり方はあからさまだった。メール文中でも、私だけ敬称を外して「さん」に書き換えた。

この人はマウントをとろうと必死なのだ。どうかしている。

さらに亀裂はエスカレートした。わたしへの一方的な詰問を始めたのだ。「このプラントの改善事項を言え。なぜそれを提案しない?お前の年齢に見合った、それなりの給料を払っているんだ」。唐突な攻撃に、わたしはただひるみ、その場を取り繕うしかなかった。

さらに、机を叩いて攻め立てた。「日常業務で生じたことを基地に問い合わせる前に、どうして俺に事前に報告しないのか」。とうとうわたしはコップの水を、思いっきりパートナーに向けて浴びせかけた。

「自分でコミュニケーションをぶち壊しておいて、そんなことを主張するあなたは勝手だ。それもわからないの?」それがわたしのこの世界での最後の言葉だった。ここにいるのは、もううんざりだった。

*

わたしは大急ぎで火星屋外装備を装着し、外に出た。荷物は私用のリュックだけ。中身はいつも入れっぱなしの、一日分の非常食だけ。

こんな日に限って雲一つない猛暑。最近は薄曇りの日が続いていたのに、ついていないな。

砂の焼けつくような熱が、分厚い靴の生地を透くように、足の裏を熱くする。酸素ボンベは夜までもたないだろう。これからの明確な行き先はない。ただ、わたし自身をパートナーから見えない場所に葬り去ること、それがパートナーの望むところだと知っていたし、それがわたしの目指す唯一の目標だった。

どうして、破壊衝動に突き動かされて、動いてしまうんだろう?

忌避されてからの期間、マインドコントロールもしくはそれに同等のことをされ続けたらしい。パートナーは心理学の領域にも踏み込んでいたので、そのことを知らないわけがなかった。一定期間の放置の後に、怒鳴り散らす心理操作のことを。

つまり、わたしはパートナーの思うツボに、ハマったらしい。それに気づいても、なぜか逃れることができない。

ただ、こう思うのだ。もうわたしは火星に用なしだ。砂漠に埋もれたまま、わたしはもう何も考えたくない。火星になんて来なけりゃよかった。

わたしは岩陰を見つけて、少しひんやりした穴を掘って潜り込み、すべての通信機器のスイッチを切った。でも、火星はとても静かでやさしかった。余生があとわずかでも、少しでも安らぎが欲しくてたまらなかった。

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