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未来に挑む少年少女たち

学校から帰ってきた息子が、トランジスタラジオのスイッチを入れると、地球の歴史の教科書のような音楽が堂々と流れてくる。もうその作曲家のいた国は、地図から無くなっているけれど。

気分のすぐれなかったわたしは、音楽から逃れるようにベランダから顔を出してみる。眺めのいい部屋からは、まだ人の手のついていない山並みが延々と見通せる。なんて素敵な場所なんだろう、と深呼吸した。

「そうだ、アップルパイを焼いたのよ」と振り向いたわたしは、すっかり作曲に夢中になっている息子に気づいた。毎日この繰り返しだった。いつもわたしは疑問に思う。息子はいつの間に音楽知識を身につけたのだろう?

*

最初は、背伸びした程度の作品だろうと軽く見ていた。一か月前、学校の担任に呼び出された。音楽室で聞かされたピアノ音楽は、鈍い色をした金属を連想させる和音による、不思議な単一楽章ソナタだった。「これはあなたの息子さんの作品ですよ」と説明を受けた。

火星には才能を最大限に伸ばすための社会構造がある。担任は息子の音楽的才能に警告を発した。このままだと息子は、強制的に火星社会を代表する作曲家に祭り上げられてしまう。音楽で自由な活動なんて許されない、ただ火星移住の士気を高めるためだけの音楽を作る人生を送らなくてはならない。

そうした犠牲者にならないように、担任はわたしに忠告してくれたのだ。本当は本人の意思に関係なく、才能の存在を教員は国に密告しなければならなかった。担任は必死だった。

才能を持つことの恐怖にどの家庭も怯えていた時代。なんて非情な世界なんだろう、と担任は火星地図を恨めしく横目で見た。

*

担任との面談のあった午後、包み隠さず息子に説明した。彼の目は潤んだ。「どうして泣いてるの?悔しいよね?」とわたしが声を掛けると、彼は首を振って否定した。「そのことは、とっくにわかってる。でも、僕は戦わなくちゃいけないんだ」と言った。十歳なのに?

「隠れて誤魔化して生きるのはイヤなんだ。たとえば、僕に化学のひらめきに抜群に溢れていたとするよね。僕が世の中に出て行かなくても、きっと他の誰かが化学を切り拓いて、殺し合う爆弾を開発してしまう。結局、嫌な役をたらい回しにするだけなんだ。だったら、これからの将来、悪循環を断ち切る道筋をつけるために、社会にうまく切り込んでいくべきだと思っている」

「音楽をどうしようとしているの、あなたは?」

息子はまた首を横に振った。「知っているんだけれど、今は具体的なことを教えられないんだ。ごめんねママ。でも、僕はこれから長生きして、曲を作り続けなくちゃいけない。僕がいなくなった後でもいろいろ取沙汰されるだろうけれど、それは未来のために仕方のないことなんだ」

息子の目から涙が消えていて、これから八十年の歳月を経た彼の晩年の姿と対峙している気がした。わたしが決して見ることのない姿。

*

それからひと月が経過した。

アップルパイを温め直すと、部屋じゅうが暖かくなった。

ラジオから流れる音楽が大袈裟な火星オリジナルの音楽作品になると、息子はスイッチを切って「アップルパイには紅茶がいいよね」とお湯を沸かし始めた。

そして作ったばかりの歌を彼は口ずさんだ。

わたしの悩みはこれからどんどん大きくなっていくというのに。ほんとに。

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