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危うさもそっと包み込めたら

 中1の頃、3か月くらい1度も笑わなかったことがある。いや、多分笑ったことはあったかもしれないけど、顔だけみたいな。

 その頃の記憶は正直あまりない。ただきっかけは部活の先輩に頼まれていたものを買ってこなくて、部活に影響が出たこと。いやパシリとかそういうのじゃなくて・・・。わたし吹奏楽部でマーチングをやってて、その中にカラーガードといって踊る人たちがいるんですけど、それだったんです(だからぶっちゃけ楽器あまり吹かないのに吹奏楽部だった。)。それで旗を使うんです。「その旗に巻くテープを買ってきて」って言われていたことすっかり抜けていて、ちょっと練習で使うのに間に合わなくて、そのことを顧問の先生に謝りに行った。「忘れたのわたしなので巻けませんでした。すみませんでした。」みたいなことを多分言ったんだと思う。そしたら「それ部費で買うやつだから。誰に言われたの?」ってなって「○○先輩です」って言ったらその先輩が怒られて、、、みたいなことが中1の5月くらいにあって。それからはマジで部活行く気失くしたし、学校にも行く気なくした。でも休んだのは1日だけ。

 1日だけ休んだ時は、見かねた家族が「ディズニーランド行こう」って言ってもう登校していた妹も学校に迎えに行って、車で連れて行ってくれた。でも正直わたしはあんまり楽しめなかったし、だけど心配して連れてきてくれていることもわかっていたから、1日ディズニーランドで過ごしたって記憶だけはあるんだけど、具体的に何に乗ったかとか覚えてない。唯一記憶に残っているのはどこかのおみやげやさんにいたことくらい。(え、、、学校休んで行ってるのに誰に買ったのよ。多分家族ぐるみで仲良かった友達家族に買ったんだと思います。そこの記憶はないけど。)

 わたしの28年間の人生の記憶でもかなり大きく落ちていた時期だと思う。むしろそこからかな、気分とか感情、調子の波が始まったのは。それまでにもあったんだろうけど、あまり大したことなかった。

 中学校卒業する時に欠席が1日だけで、両親は「皆勤賞もらいそびれちゃったね」と言ってきた。わたしは別に皆勤賞とか欲しくなかったのでいいのだけど。

 大学2年生の頃、1か月学校を休んだことがあった。そのきっかけは忘れちゃうくらいの些細なことだった。ああ思い出した。新入生オリエンテーション係みたいなことをやっていて2、3日春休み中に学校に行って、自分のクラスの後輩をキャンパスツアーに連れてったり質問に答えたりみたいなことをしていて、それはすごく楽しくて一緒にやってた友達とも仲良かったから本当に最高だった!その最終日に一緒に係をやっていた3人で校内の食堂で打ち上げしていた時、たまたま通りかかった情報の先生(男)も参加してきて色々話した。で、どういう話の流れだったかは忘れちゃったけど、丁度その頃わたしが保育士の資格を取ろうとしていた時で、うちの大学の保育・児童学部ってけっこう有名で、就職率とかもよかったんです。求人の数が半端なく来るし。でもわたしは音楽療法コースだったし、当然その保育士の資格を取るための授業が受けられるわけでもなく、独学で国家試験突破するしかなかった。それで保育・児童学部の子たちとたまたま同じ授業とかとることもあったりして(だったら保育の授業もとれたんじゃないの、、、と今更)。だけどその子たちの態度とか色々疑問だった。「本当に保育士になりたいの?」「この子先生になるの?」とか腹の底では思ってた。

 だからなんというか悔しくなっちゃって、私は音楽療法コースに来たけど子どもにかかわる仕事に就きたくて、障害児療育だったり特別支援教育だったり、音楽療法そのものだったりの授業はとれるけど、小学校教諭や保育士はとれない(多分今考えたら必修多すぎちゃうから時間が足りなくて無理だったんだと思う)。なのにこの子たちは卒業したら保育士の資格がもらえて、教員資格ももらえて、そんなのずるくない???って思ってた。そういうことをそのメンバーで話していたら、なんかボロボロ涙が出てきちゃって、謝ってたらその先生が話し始めた。

 「僕はもともと教員になりたかった。でも今は事務の仕事と掛け持ちって形で携わってる。パソコン得意だし夢もかなったし一石二鳥。」的な話をしてくれて。その時はそっかあ~くらいにしか思ってなかったんだけど、今思うと私の働き方はこれにすごく近いんだなって思う。


 大学卒業時には音楽療法士、音楽教員免許中・高、保育士の資格があった。障害福祉の法人に就職して1年目は就労支援をしてベーグルや焼き菓子を利用者と一緒に作って販売しに行ったり、お弁当を作ったり、喫茶店を運営したり。作り方全然知らなかったけど毎日やってたら覚えられたし、スタッフや利用者がめちゃくちゃできるから聞きながら覚えた。焼き菓子作りは好きだったし、好きじゃなくて続かない人もいるって聞いたけどそれはなかった。私も就労支援ってよくわかっていなかったけど、お菓子のレシピを誰が見てもわかりやすく作る方法とか、その人にとってクリアしやすい作り方とかも覚えられた。例えば電動車いすで麻痺がある利用者さんがいたんだけど、その人氷川きよしが大好きでよくコンサート行ってましたね。ああ懐かしい。。。あ、それで麻痺があるから、おたまをもって、小麦粉の入っているケースから粉をすくって、ボールに入れてって作業が結構大変なんです。でもおたま持てるし、小麦粉のケース自体の大きさとか蓋の形状だったり、ボールの大きさ、ボールを押さえてる人くらいがいればできたんです。あとは普通に一人でベーグルやクッキー作ってました。

 他にも私と入社が同じの利用者さんがいて(勝手に同期だと思ってるんですけど)、めちゃくちゃ人見知りだったんです。もううつむいてかたまって声も出ないくらい。だけど1、2か月くらい経ったら喫茶店で普通に接客していて、人の成長ってすごいと思いました。というか若さ?あの頃はって今もか、5歳くらいしか違わないはずなのに。。。って話がちょっとそれちゃったけど、それはそれで楽しかったし勉強になった。

 2年目は放課後等デイサービスと児童発達支援事業の立ち上げにかかわった。わたしは放デイ配属で小中高の子どもたちと関わることが多かった。立ち上げのメンバーは私含め3人。リーダーは女性でずっと入所施設で働いていた人。もう1人は放デイと居宅や移動などの支援をしていた男性でわたしより3つくらい年上だった。

 3年目の夏に体調を崩して1か月休職して、冬には退職した。大きな理由はそのリーダーとは合わなかったこと。他のスタッフにはよくしてもらっていた。というかその人も悪い人ではなかったのですが。

 児童養護施設で育った方でした。理由はわからない。両親とは今も一緒に住んでいないことはわかった。だけど実家に住んでいたし、結構遠いのに通ってきていた。「頭悪いからさ」「○○さんみたいにうまくできないから」と話していたのを覚えてる。その人は退職したかったけど、引き留められて放デイに来た。子どもの経験はなかったけどリーダーになった。インプットは苦手というかあまり欲がなかった。

 でもその人はリーダーの役目を果たそうとしていた。全体のことを考えたり、流れを把握したり、時間を守ったり。でもわたしはもっと個に焦点を当てて欲しかった。その人はずっと大きな集団の中で生活してきたから、もしかしたらそういう感覚がなかったのかもしれない。いやあったけど、わたしが気づけなかったのかもしれない。子どもにかかわったり、保護者と関わることが苦手そうに見えることがあった。特に多動で脱走したり片付けなかったり、ルールを守らない子とはあまり相性が良くないように感じた。そういう子の保護者とも。

 だからそういう時は基本的には若いスタッフが対応していたし、わたしはそういう子や保護者と関わることはわりと好きだった。ある日小3の男の子がボールプールのボールを床にどばーっと出して遊んでいる時、リーダーが「片付けて」と言った。そのことをきっかけにその子の機嫌は悪くなりだして、たまたま書類の提出に来ていた保護者を見つけ「帰る」と言い出した。わたしはなんで「片付けて」って言っちゃうんだろう、いや昨日もああやって遊んでたんだけどな、このままだと非常にまずいよみたいなオーラを放つ双方の様子を見てあわあわしていた。わたしは保護者にこういうことがあったから帰りたいと言っていることを伝えて、ある程度ボールを自分で片付けちゃってボール1、2個残しといてこれだけいれたら帰れるということにして、保護者の方も「片付けておいで」と言ってくれたので、その子も片付けてくれて無事帰れることになりめでたしめでたし。

 ではなく、わたしの胸中はハラワタ煮えくり返ってました。なぜならその子が「帰る」と言って本当に帰ったことは初めてだったし、前日の流れを知らないから「片付けて」と言えたんだろうなと思ったし、楽しく遊んでいる最中にそう言われたらその子がどんな気持ちになるかは想像できなかったのかなと。だけどその人には想像できなかったのだと思う。良い悪いとかではなく、本当にその人からしたら予想外の展開だった。

 わたしの休職中、個別支援計画を書かなければならなったのに書かないまま突入してしまったので、そのリーダーが作ってくれた。小2女児で知的に低く自閉傾向のあるお子さんで特別支援学校に通っていた。言葉は発さないけど調子の良さ悪さはわかりやすくて、排泄は自立してないし食介も必要だった。休職あけてからその子の保護者から電話があった。連絡帳をみていると面談の時に話していた自立課題をやっている様子がないと。わたしはどんな面談だったのかも正直わからず。どんなことその保護者が話していたのか気になったので聞いてみたら「共有されてないのか」「計画相談の書類も全て渡してある」など、本当にごもっともなことを言われた。わたしはパニックだったけど。それでリーダーに聞いてみたけどあまり具体的な返事はもらえず、わたしは自立課題を作ったり心理士さんとも相談しながらおもちゃ選びをした。翌日その子と遊んでみてからもう一度保護者に電話した。その時の電話は一生忘れないと思う。

 「昨日はすみませんでした」と謝ったら、その保護者も「違うの、こちらこそごめんね、びっくりさせちゃったよね。真生さんが休職していたのも知ってたし、戻ってきてくれて本当によかったと思っている。感謝していない保護者はいないから。」と言われた時に涙どばーーーって溢れてきて、電話だったのに嗚咽出るくらい泣いてたからまともに話せてなかったと思う。「今回のことはわたしの休職中におきたことでわたしも責任を感じてしまって」と話したのを覚えてる。この電話があったからわたしはもうちょっとだけ退職しないで続けようと思った。

 退職してからもメールでやりとりさせてもらうことがあった。というのもたまたまその子の同級生で私の担当だった子の保護者が障害福祉系の会社を立ち上げたと名刺を頂いていて、そのメールアドレスに連絡してみたことからつながった。その内容もすごく心に残っている。


 リーダーもその保護者も決して悪い人じゃない。というよりむしろ善い人だ。でもわたしはリーダーとは対話できなかったけど、保護者とは対話ができた。ただそれだけの違いだったと思う。今考えると。

 きっとその裏には色んな背景や要因が複雑にあるんだろうけど、わたし側としては、まずそのリーダーからは週1ペースで小言を言われていたこと、インプット欲が無さそうだったからあまりやる気がないように見えたこと、本当に子どもや保護者と関わりたいのかな?と思ったこと、もっとうまいやり方あるじゃん・・・と思っていたから対話が成立しなかった。リーダーはどちらかといえば私と対話がしたかったのかもしれない(いや全くしたくなかったかもしれないけど)。夏休みのスケジュール決めをなんと2人でやることになったりとかもしてたし。リーダーは本当にリーダーとして全体を、チームをまとめたかったのだと思う。

 あと、わたしは児童養護施設出身であることを知っていたけど、その人はわたしが知っているとは気づいてなかった。そこに触れることはタブーだと思っていたし、なんとなくリーダーが自分から話さないということは触れられたくないようなオーラを放っているように感じられたのだと思う。

 だけど本当にそうだったのだろうか。聞いてみたら何か色々出てきたかもしれないし、わたしも共感というか理解できることがあったかもしれないし、全く無かったかもしれないし。それはそれで関係性深まったのかもなんて、、、。今更遅いけど。


 わたしは中1の笑えなかった頃、誰かに話すことは少なかった。そういう状態と知っている子はもちろんいたけど、知らない子の方が多い。大2で1か月休んだ時も、休職したり退職したりした時も。せいぜい家族とか親友とか彼氏とかその程度だ。多分大2に至っては誰にも話していない、、、(ってあの場にいたメンバーに思いっきり話してた。というか1か月休んだ理由を考えたことあまりなかったのだけど、こうして書いてみて思い出した)。

 だけどそういう時どうして欲しかったかと考えると、あまりピンとこなくて。わたしは心配されている感、匂いを即座にかぎとって鍵をかけるように自室に閉じこもったんだと思う。いわゆるひきこもり。休日遊んでる人と思われがちなんですけど、めちゃくちゃインドアですからねわたし。なんなら部屋で歌ってれば、どこでも一人カラオケ状態でめっちゃ楽しいし無料だし。

 心配されたくない、迷惑かけたくない、でも放置されるのも全く気付かれないのも嫌みたいなめちゃくちゃアンビバレンスな面倒くさい奴になることってみんなあると思うんですけど、、、えーっとわたしだけですかね?

 このなんとも危うくて、でも死ぬわけじゃないし放っておいても平気くらいに思えるような時、その危うさ自体を嗅ぎとってふわっとさりげなく包み込んでくれるような人がいたら最高だと思うんです。そういう人になりたいな。


 っていうかかなり脱線したし、子どもの頃ってどんなんだったっけ?って振り返ってたら、いつのまにか就職してたし、言ってしまえば、今も子どもなんじゃないかと思えて笑えてきた。中高生と関わってるし、、、その方がわかることとかあるよね、、、きっと、、、、、

という言い訳で終わりたいと思います。おしまい。

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