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鳥取城跡に残されている不思議な石の正体

鳥取城跡にそこそこ近い場所で私は生まれ育った。そのため、鳥取城跡は身近な遊び場だった。鳥取城といえば、鳥取市内に住む者であれば秀吉の兵糧攻めによる壮絶な戦場であったことを、大人のみならず子どもまでも知っている。空想を膨らませながら遊び回るには格好の拠点だった。

もちろん、天守閣で遊ぼうとすると、秀吉が真っ向勝負を嫌がったほどの山道を登ることになるから、私たちの遊び場だったのは、いわゆる「二の丸」までである。二の丸とは、平時の拠点が置かれる場所だ。ここで殿様や奥方が生活をしたとされている。

二の丸の石垣の一つに嵌め込まれた不思議な石は、石垣で遊ぶ私たちの興味の対象になることがあった。その石は、数mの高さでそびえる石垣の上のあたりにあって、ぽっかりとくり抜かれた丸い穴は下からでも黒々と見ることができる。

「あの穴の正体はなんだろう」と子どもの想像力が刺激されたのは自然なことであった。

鳥取城は兵糧攻めをされてもなかなか落ちなかったという。それは密かに作られた抜け穴のおかげだったそうだ。「じゃあ、あの不思議な石が抜け穴に違いない」というのが子どもが捻り出した一説だ。しかし、ちょっと考えればわかることだが、抜け穴の出入り口があんな目立つ所にあったら役に立たないではないか!

またある子どもはこのような説を唱えた。その昔、石垣を組むときには中に人を埋めたらしい。きっとあの穴に人を詰めたに違いない。だから、あの中を探せば白骨があるはずだ。おい、お前見てこいよ……といった、人身御供の痕跡説もあった。これは子どもの間の有力説として広まっていたが、石の穴は実はそれほど大きくない。まあ、小学校低学年なら入れるかも知れないという程度だ。子どもの小さな目には、物事が実際よりも大きくみえるものだから育まれた空想だろう。

二の丸の石垣の、高くそびえるドテッ腹に堂々と嵌め込まれている穴の空けられたその不思議な石は、なんだったのか。答えは、教育委員会が設置した看板を読めば解ることだが、石垣を建造するさいの功労者が用いた手水鉢を、功績の顕彰のためにはめ込んだというわけだ。手水鉢とは、手を洗うための据え置き型の器だ。

その功労者の名前は、「おさご」という。漢字の書き方は「お左近」とか「尾砂子」とかあるけれど、要するに女性の名前である。

鳥取城跡の全景
(Wikipediaより)

おさごは、鳥取藩の初代藩主・池田長吉の息子の妻に仕えた侍女である。まわりくどい肩書きだが、要するに、お姫様に重用されていた人物ということだ。侍女といえば、いわばお姫様のお世話係だが、それが城の建造という現場仕事でいったいいかなる功績を立てたのか。これがちょっと面白い話だと私は思っている。

18世紀の江戸時代の鳥取城の様子を記した重要資料の「鳥府志」によれば、おさごは並外れて美しいうえに、非常に賢い女性だった。主に重用されるうちに、鳥取城建造の連絡係を担当にするようになった。現代でいえば、電話やメールのやりとりをきっちりこなす敏腕秘書といったところだろうか。

やがて、おさごは連絡係にとどまらず、あれこれと現場の指図までするようになった。ちょっとそれは現場に波乱を呼ぶのでは……と心がざわつくが、石垣の苦役を勤める人夫にとっておさごの美貌が、ちょっとした癒やしになっていたそうだ。言ってみれば、部署に異動してきた見目麗しい社員が、異性の生産性爆上を後押しするという話はまあ納得感がある。もちろん、才色兼備のヒトであったおさごは、指図も的確だったのだろう。部下のやる気を引き出す美人上司といったところか。

ずいぶん前から城郭ファンにとって石垣は見どころの一つだった。その積み方がどうだとか、この形はこのような意図があるとか、石垣職人のワザが注目されてきた。一方、石垣の建造は、直木賞受賞作の『塞王の城(今村翔吾)』でも描かれているが、命がけの仕事である。”ワザ”だけでなく”士気”が大事というわけだ。石垣を作った人々の存在を、「おさごの手水鉢」がもの言わぬ語り部として私達にひしひしと伝えてくれるのが感慨深い。

「この石垣を作ったヒトたちはどのような気持ちで作ったのだろう」と想像する依り代が残されているのは、とても貴重なことだと私は思う。

(参考文献について)
『鳥府志』の部分は、地元有志による”超訳版”を大いに参考にした。

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