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 淡いノイズが聞こえて、カーテンの中へ潜り込んだ。明け方の空の色もまた淡く、私の目を覚ます力を持たない。曇りガラスに耳を当てて、嵌め殺しの窓枠に肘を引っかけてもたれかかる。
 雨の音。
 それも結構強い雨。ガラス越しに絶え間なくざあざあとノイズが走る。向かいのビルや真下のコンクリートに打ち付ける雨粒の音。目を瞑る。暗闇で目を瞑るよりは薄い暗闇で耳を澄ませる。無意識に足の指がぴくりと動いて、親指の爪がパパに当たる。パパは死んだように眠っている。
 陽気な人で、昨日はお酒も飲んでさらに騒がしくなっていたのに、眠ると途端に静まり返る人だった。いびきはもちろんかかないし、ただの呼吸すらしているのかどうかわからなくて、心配になって胸元に耳を当てたことが何度もある。雨音を聞くみたいに。
 パパを見ないまま、足の指でパパをなぞった。渇いた肌に頼りない体毛。いつできたかわからないと笑っていた古い傷跡が右の前腕に二つある。肘の皺は象の皮膚のように固い。いつも夜遅くまで仕事で、私はこの、金曜の夜と土曜の朝しか長く一緒にいられない。死体のようなパパがゆっくり休んでいられるように、私はパパが自然に目を覚ますまで息を殺す。物音を立てない。カーテンを開けない。でも朝が好き。朝の光が好き。曇天と雨はもっと好き。
 眩しさを感じて目を開ける。先程よりもずっと明るくなっている。雨音も弱くなった。足の指の腹に何かが擦れる感覚がある。パパが身動ぎをしたのだ。私は窓から身体を離し、潜り込んだ時よりも慎重にカーテンの外へ出た。つまり部屋の中。暗い部屋の中。カーテンの隙間からほんのり零れる朝日以外に光が無く、窓を抜けてほんのり零れるノイズ以外に音が無い部屋の中。私はほとんど息だけでパパを呼んだ。
 パパは固まった身体をぱきぱき鳴らしながら身動ぎをして、のっそりと上体を起こす。まだ夢を見ているような瞳で私を見つめ、力なく微笑んだ。

「おはよう、パパ……」

 パパは何か言おうとしたけれど、喉が渇いて声が出ないのか、諦めてベッドの下に放り投げた自分のズボンを拾いあげ、ポケットから財布を取り出した。

「パパ。まだ寝てていいよ」

 パパは首を振る。微笑んだまま。財布から一万円札を数枚抜き出して私に押し付ける。私は素直に受け取る。

「ありがとう、パパ」

 私はこの人が好きだ。いつも褒めて甘やかしてくれるところとか。パパと呼ぶと喜んでお寿司を奢ってくれるのに、ホテルに入ったら名前で呼ばれたがるところとか。私としたくてするのに、すぐに罪悪感に襲われてたくさんのお金をくれるところとか。多忙な毎日の中で、ゆっくりできる唯一の夜と朝を私に割いているところとか。もし万が一、このお金を断ったら、きっと二度と会ってくれないところとか。断らないけれど。私はお金がほしくてこの人に時間を割いている。明るいくせに死体のようで、家族もいなくてなんのために働いているかわからなくて、お金を通じてしか人と繋がれないと思い込んでいる人。雨の日の朝みたいで好き。私みたいで好き。
 お金を脇に置いて、パパの腕に抱き着いてそのまま寝転がる。引っ張られたパパはベッドを軋ませて倒れ、咳き込むような音を立てて笑った。私も笑って、パパの古びた腕へ鼻を寄せた。
 そういえばパパは、雨の匂いがする。

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