初盆
お父さんが死んで初めてのお盆。
飛行機に乗らないと行けないおじいちゃんの家に、僕とお兄ちゃんとお母さんで向かう。
僕が生まれた時から暮らしていたのとは違う町にお父さんが埋められているのが不思議だったけど、お母さんは「そういうものだから」と繰り返し僕をなだめていた。僕じゃなくてお母さんをなだめているみたいだった。
法事は退屈だ。ずっと座って黙っていないといけないし、みんな暗い顔をしている。お母さんは無理に笑っていろんな親戚の人に挨拶をしているし、おじいちゃんもおばあちゃんも遺影を前に俯いているばかりで構ってくれない。
初めてのお盆にやるべきことというのが一通り終わって、味を感じられないまま大勢で食事を済ませて、おじさんたちがお酒を飲み始めた頃、お兄ちゃんがこっそり僕の手を引いた。
「宗。飽きたろ。逃げよう」
僕はお母さんをちらりと見た。すごく疲れているみたいだったから、逃げるなら一緒に逃げたいと思った。お母さんは僕と目が合うと、お兄ちゃんを一瞥して微笑んだ。いってらっしゃい、という意味だ。それで仕方なくお兄ちゃんについていく。
「お兄ちゃん、どこ行くの」
「誰もいないとこ」
「道、わかるの、戻ってこれるの」
「多分。スマホあるし」
それきり僕もお兄ちゃんも黙って歩き続けた。ぎゅっと手を握っているけれど、いつまで経ってもお互いに冷たいままで不思議だった。
おじいちゃんの家から少し離れると、すぐに田んぼばかりが広がる静かな道に出る。誰もいないのを確かめると、お兄ちゃんはシャツのボタンをどんどん外していった。お兄ちゃんは中学校の制服。僕はお母さんに買ってもらった喪服を着ている。僕も真似をしてボタンを外そうとするけど、片手だからうまくいかない。いつもボタンのついた服なんて着ないし。お兄ちゃんが気づいて足を止め、手伝ってくれる。
「宗。ジュース飲むか」
「いらない。さっきいっぱい飲んだ」
「そうだな」
「お兄ちゃん。どこ行くの。もう誰もいないよ」
「廃線」
僕が首を傾げると、お兄ちゃんはふっと笑った。笑った時の顔がすごくお父さんに似ていて、僕は泣いちゃいそうになる。
「田舎だろ。前は電車通ってたけど、今は通らなくなって、線路だけが残ってるところがあるんだって。その上歩いてみようぜ」
「線路の上? 歩いていいの?」
「電車が通らないから大丈夫、だって」
「誰かが教えてくれたの?」
「父さん」
お兄ちゃんは立ち上がって、また僕の手を握り歩き出した。お兄ちゃんはこの一年でぐんと背が伸びて、僕だってちょっとは伸びたけど全然追いつけない。今はそれもいいと思った。見上げてもお兄ちゃんの顔が見られないし、僕は俯いていればお兄ちゃんに顔を見られないから。
「去年の夏にここに来た時教えてくれた。今度父さんと俺と宗の三人で歩きに行こうって」
「そう、なんだ」
「怠いなって、断ったんだけど。行けなくなるなんて思わなかったから」
「……お母さんも一緒がいいよ」
「もっと怠いよ。母さん、廃線だって線路の上なんか歩いたら危ないって言うに決まってる」
日が傾き始めていた。歩いたせいもあって身体が熱い。線路を囲う低い柵や上がりっぱなしの遮断機にはびっしり蔦が絡みついていた。線路に撒かれている砂利も、雑草や苔にまみれていて、線路自体も古びている。よろめきながら線路の上に立つ。お兄ちゃんに従って、手を繋いだままついていく。
どれだけ熱くても、僕達の手はお父さんの死体みたいに冷たかった。僕達も死んでいくんじゃないかって思った。
「どこに繋がってるんだろう」
「さあ」
「僕達、帰れなくなっちゃうかも」
「いいんじゃないの」
「よくないよ。お母さんがいるんだよ」
「父さんだって。母さんも俺達もいるのに帰ってこなくなっただろ」
「僕達がいなくなったら、お母さんがひとりぼっちになるんだよ」
「今は父さんがひとりぼっちだろ」
「ずるい。お兄ちゃん、意地悪だ」
「なら、お前だけ母さんのとこに帰れよ」
線路が歪む。砂利も雑草も歪む。僕の足も歪む。真下にぼろぼろ僕の涙が落ちていく。それでも歩き続けた。お兄ちゃんと固く手を繋いで歩き続けた。
お兄ちゃんと二人きりでこんなに話したのは久しぶりだった。一昨年お兄ちゃんが中学校に上がってから、僕ともお父さんお母さんともあんまり話してくれなくなって、僕はお兄ちゃんへの甘え方を忘れたところだった。前より意地悪だ。ひどいことを言う。わざと僕にお父さんのことを思い出させているみたい。悲しくなってしゃくりあげて泣いても、お兄ちゃんは謝ったりしなかった。
「お兄ちゃん、ひどい。ひっく。お兄ちゃん」
「宗。転ぶぞ。前見ろ」
「お兄ちゃんが泣かせるからあ」
「泣いたらいいだろ!」
急に強くなった声音に驚いて顔を上げる。僕のじゃない涙が僕のおでこに落ちた。
お兄ちゃんも泣いている。
下唇を噛んで、眉間に皺を寄せて。大人みたいに泣いている。
「しゅ、宗は、たくさん泣いたらいいだろ」
「もっ、もうっ、い、いっぱい泣いたもん」
「うるさい。足りない。泣きたいだけ泣いたらいいんだよ。まだ九歳のくせに」
「おっ、おっ、お兄ちゃんだって、まだ中学生のくせに」
「おっ、おっ、お前より五つも年上なんだよ」
「でも、中学生は子供だって、お父さんもお母さんも言ってたもん」
「うるさい。宗よりちょっと大人なのは本当だろ。宗、しゅ、宗が泣いてないのに、お兄ちゃんが泣けるわけないだろ」
「なっ、泣いてるくせにい」
「い、いまっ、いまは、宗が泣いてるから」
「うるさい。お兄ちゃん、うるさいっ。うわああん」
「宗こそ、宗、こそ……うっ、うわああ…ん」
僕達は声を上げて泣きながら歩き続けた。気が付いたら夜になっていた。怒ったお母さんから電話がかかってきた時にも、二人で泣きじゃくりながら謝った。
その日、寝る前に、今度はお母さんがぼろぼろ泣いた。「さっきあんたたちが大泣きしてたから、お母さんまで気が緩んじゃった」と笑って。
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