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夜の音

 アマネの生きる星には、朝の季節と夜の季節がある。朝の季節は五年、夜の季節は七年あり、星に暮らす者はそれぞれの季節用の家を建てて生きている。
 アマネは裕福な家系の一人娘で、朝の家も夜の家も街で一番大きく豪華なことで有名だった。街にアマネを知らない者はいなかったし、アマネがどれだけ愛されているかについても同様だった。
 アマネ自身も、自分が周囲にどれだけ愛されているかよく理解していた。アマネが生まれてから八度目の夜の季節三年目の時に、弟が一人生まれた。一人娘であるがゆえに非常に大切に育てられてきたアマネは、小さな弟に両親の興味や資産が分配されることを脅威に感じ、盗んで朝の家の台所に置き去りにした。弟が行方不明になったことで街中が大騒ぎしたが、朝の家は捜索されなかった。寒く暗い夜の季節に、風通しが良く電気も使えない朝の建物を訪れる者はいないと誰もが思い込んでいたからだ。
 やがて夜の季節が終わり、朝の季節になって家族で朝の家を訪れた。ようやく弟の死体が発見される。弟は、他の死体と同じように透明な水袋となって台所に横たわっていた。両親は激しく泣いた。母親は身体を壊して滅多に起き上がれなくなった。元の朝の家を見ると気を失ってしまうので建て直すことになった。今度のもどこの家より豪華だった。
 アマネは「こんなに悲しむのなら自分が一番に台所へ駆け、弟を針で突いて排水口に流してしまえばよかった」と下唇を噛んだ。

 アマネは非情な子供だったが、それに気づいた大人はいなかった。アマネが生まれてから九度目の朝の季節二年目の時、アマネは勉強を嫌うあまり、家庭教師の男を誘惑した。アマネはとびきりの美人だった。アマネほど透き通った白い肌を持つ者は街におらず、また美の象徴である深い空色の瞳は宝石を埋め込んだようで、声色など赤ん坊の匂いのように甘かった。母親のワンピースを盗んで着てみれば、サイズの合っていないところがなおも少女の色気を引き立てて素晴らしく妖艶な子供になった。強い太陽の光が差す朝の家、少女の私室。アマネは男にぴったり寄り添って甘い声で名前を呼んだ。
 男は星を覆う宗教の敬虔な教徒であり、両親もその点を買ってアマネの教師を依頼した。しかし教義の中で非常な悪徳とされる少女愛にどっぷり浸かってしまったのだった。アマネの下僕と化した男は彼女の成績を偽り、街の試験の時にはテスト問題を盗みアマネに伝え、褒美に気が狂うほどの優しい愛撫を受けた。
 それでも悪いのは手を出した自分だと思っていた男は、自身の行いを悔いて辞意を伝えたこともある。そうなるとアマネはぽろぽろと大粒の涙を流して、縋るように男の手を取り、散る花弁のごとく悲し気な声で、ドラマに出てくる大人の女性の口調を真似た。まだこどもの歪な少女が「あたし」なんて言って大人ぶるのは、脳を揺らすほどの快感だった。
「あたしの心を奪っておいて、いなくなってしまうの。ひどいひと。あたし、もうあなた無しでは、おそろしくて生きていられないのに……」
 アマネは男を籠絡して成績を偽っていることがばれたら酷く叱責されると考えていた。弱く憶病な少女の姿を見せれば、優しく真面目な男はきっと「自分がこの子の悪意によって狂わされている」とは思わず、ただひたすらに自分が悪いのだと責め続けるだろう。それなら万が一ばれても自分は叱られない。気持ちを繋ぎ止めておけば許可無しに下僕をやめることも無い。
 月日が経ち夜の季節に変わる頃、家を移るために街中が慌ただしく動いていた。アマネと男の授業も休止となり、半年ほど二人きりになれなくなる。男はアマネに会えないことが酷い苦痛となっており、また「アマネも苦しんでいるに違いない」との妄想から、アマネの家に侵入を試みた。アマネにたどり着く前に使用人に発見され、軍の基地へ連行された。罪人は軍に集められ、調査隊として宇宙に流される決まりだ。
 アマネには新しく女の家庭教師が与えられたが、アマネが籠絡するのに時間はかからなかった。アマネには魔性の才能がある。それは生まれ持った美しさと非情さから生じた特異な能力であった。

 大人は気づかなくとも、同じ子供には気づく者もいた。アマネが生まれてから十度目の夜の季節五年目の時、友人のイリスという少女に好きな人ができた。
 イリスの父親は市議会議員で、アマネの父の部下。そのよしみで分別のつかない頃から仲良くしていた二人だが、イリスがアマネに敵うことは何一つなく(最も対等な条件で勉強のテストをすればイリスの全勝だろう)、また互いにそれを当然と思っていた。しかし、「好きな人」ができたのはイリスが先だった。
 イリスの想い人は、学校の先輩だった。子供が学校に通うことは義務ではない。貧民は子供に教育を与えず、中流階級の人々は子供を学校に通わせ、上流階級であれば子供に家庭教師をつける。だからイリスは学校に通っていて、アマネは通っていない。必然、イリスのほうが同年代の男性に出会う機会も多い。
 甘いものを食べている時のように幸せそうに話すイリスを見て、アマネは羨ましくなった。アマネには恋がわからない。宇宙送りになった男や今籠絡している女教師のような大人を見るのは面白いが、どうしてそこまで自分に夢中になるのかよくわからないし、正直同じ人間の好意には飽きてしまう。きっとイリスの持っている恋心は違う。飽きることがなくて、甘くて幸せで、イリスの身分でわたしへ自慢できるほど貴重なものなはず。イリスからその想い人の情報を抜けるだけ抜き、アマネは彼に会いに行った。
 イリスはそれまで、アマネを多少立場の違いはあるが互いに同等の好意がある友人だと信じていた。けれど、アマネに想い人を取られたことで、それまでのアマネとの関わりで不自然だった点を明瞭に認識するようになった。イリスの手土産を不味いと捨ててしまった時、病に伏せる母親へ週に一度しか会っていないところ、弟が死んだ時に泣かなかったところ。なによりアマネがイリスの想い人と寄り添っているのを目撃した時、アマネがいつも通りに自分へ声を掛けてきたのがおそろしかった。きっとアマネは、自分が得をするのであれば何だってしてしまう。自分を傷つけたとすら思っていないかもしれない。
 イリスはアマネと極力距離を取るようになった。恐怖から、アマネの非情さを誰かに打ち明けることはできなかった。

 そしてアマネは、幸いに本当の恋を知ることになる。アマネが生まれてから十一度目の朝の季節三年目、アマネは大人と呼ばれる年齢になった。
 アマネは天才的な魔性さ以外特に取り柄のない女性に育ったが、それに気づいた者もやはりほとんどいなかった。変わらず裕福なアマネには義務としての労働が発生しない。アマネは日がな好きに過ごして、父親の持ってくる縁談にマルをつけたりバツをつけたりして遊んでいた。マルを出してからバツをつけても、バツを出してからマルをつけてもアマネの自由だった。大人になったから家庭教師は不要になり、長らくアマネのいいなりだった女教師はアマネの告発で宇宙送りになった。
 しかしこの時のアマネは酷く悩んでもいた。退屈だったのだ。流行の暇潰し……太陽の光を編んで帽子を作ることも、夜のうちに集めて漬けておいた氷花が太陽で溶けるのを眺めることも、すぐにそれなりに上達して飽きてしまう。本を読むのは嫌いだし、運動もつまらない。繰り返し旅に出ることもあったが、気軽に行けるところは行き尽くしてしまったし、その行為自体に飽きてしまった。
 やはり一番楽しいのは人を籠絡している時である、と気づいて、縁談相手に会ってもみるが、ちっとも魅力を感じない。彼らは少し会話しただけでアマネを好きになってしまうし、会うたびにイリスの想い人のつまらなさを思い出す。アマネの中で彼はずっと、つまり関係があった数か月の間、あくまで「イリスの想い人」だった。
 そのイリスは父親の勧めで役所に勤めている。イリスはアマネと比較してこそ家柄が劣るが、街では十分なお嬢様だ。彼女とて働く必要は無いはずだが、働いている。働くことになにか魅力があるから働いているのだろう。それでアマネは、また彼女の持っているものを狙うことにした。父親に相談してみると、役所の仕事よりもっと良いものを紹介するというので、任せた。
 父親に手を引かれるまま自分の職場に行ってみると、そこは軍の宇宙研究施設だった。星中から頭の良い人が集まって、罪人やそれを指揮する専門の研究者が宇宙に飛んでは帰ってくる、大変に名誉な仕事が集まるところ。
 流石のアマネも勉強のできない自分には無理だと思ったが、父親の紹介する仕事はその施設の受付だった。毎日のように偉い人や賢い人がゲストとして訪れるこの施設の受付は、負担が少ないが重要な役割を持つ人気の仕事である。アマネは座って微笑んでゲストの名前を聞くだけの仕事が気に入った。毎日知らない人と話せるところが飽きなくていい。アポイントメントを調べたり部屋を取ったり連絡したりといった少々煩雑な仕事は、全部隣の賢そうな女がやってくれた。
 アマネの元にはおびただしい数の男の連絡先が集まった。アマネは面白がってそれを綺麗にファイリングしたが、ふと全ての連絡先が星にとって大きな価値のある男のものだということに気づいた。施設外の宇宙研究権威もいれば、政府の上層部もいるし、自分が所属している施設の役員のものもある。誰を夢中にさせるか決めかねていたが、自分がこの中の任意の男を籠絡して意のままに操れるぞという触れ込みをつけて売ったら、面白いのではないか。
 アマネはワクワクしながら、長い朝の街を笑いながら駆けて行った。街の誰もがそれに見とれて立ち止まった。
 朝の間静かに横たわる歓楽街に飛び込んだ。こんなところを訪れたのは初めてで勝手がわからない。酒か何かで潰れて道路に横たわる老人に声を掛ける。
「おじいさん。この街詳しい?」
「……」
「情報を買ってくれる悪い人ってどこにいるか知ってる?」
「……」
「おじいさんってば!」
 アマネは老人の腹を蹴りつけた。老人は胃液と一緒に歓楽街の情報を吐いた。夜が訪れるまで明るい朝の五年間、歓楽街とそこに根付く人々は地下に住んでいるらしい。アマネは夜色の長い髪を揺らして地下へ続く細い階段を駆け下りた。
 地下は地上より重力が大きい。ずんと重い身体にアマネは不機嫌になった。地下に作られた巨大な街は夜のように暗く、そして誰もが重たげだった。重力のせいだけではない。重いところか暗い夜にしか居られない人々が集まるところ。アマネは、そこにいる人々がみんな自分より不幸そうな顔をしていることに気づくとすぐ機嫌が良くなって、世界一軽いスキップをした。
 ピンク色の可愛い看板をした店に入る。バーであり、妙な甘い香りが漂っていた。おそろしく美しい、また有名な家の一人娘であるアマネに全員が注目した。アマネは気に留めずカウンターの椅子に腰かけ、店主に声を掛ける。
「情報を買ってくれる悪い人ってどこにいるか知ってる?」
「……市長の娘だろう、お嬢さん。こんなところにいていいのかな」
「情報を買ってくれる悪い人ってどこにいるか知ってる?」
「あのなあ、お嬢さん、ここは遊んでていいところじゃないんだよ」
「だって、わからないの。教えてくれる?」
 もう数度言葉を交わしただけで、優しい店主は人生の全てをアマネに委任すると約束をしてしまった。アマネの籠絡技術は日に日に上達している。縁談で会った男の半分が断られたショックで寝込んでいたし、もう半分は自殺した。仕事で会う男の全員がアマネに一目惚れしていたし、連絡先を渡しても反応がなければ仕事場だというのに泣きながら受付を訪れた。
 そうして難無く一番良い条件で情報を買ってくれそうな業者について尋ねると、店の個室に連れてくるから待っていろと言われてその通りにした。一時間後には顔をクレーターみたいにされた店主が、男を二人連れてきた。
「お嬢さん。俺達が誰だかわかるかい」
「一番お金を持ってる情報屋さんでしょう?」
 片方の男が「が、は、は」と大笑いした。恰幅のいい男で、高そうな赤いシャツに黒いスーツを着ていて、頬に大きな傷がある。親分だろう。
 もう片方の男はまだ年若く、細くて怪我一つない。栗色の短髪。癖毛らしくくるくる縦横無尽に巻いている。真っ黒な瞳。怪訝そうにアマネを睨んでいる。
「買ってほしいことがあるの。面白いのよ。でもわたしだけじゃ上手く使えないと思って」
「ふん。面白い、ね。いいのかな。アマネ、市長の娘、数々の縁談を断ってあの施設で受付をやってるんだよな? もし面白くないんなら、なあ、どうなるかな。お嬢さんの家は失うものが多いだろう」
「おにいさん……」
 アマネは、その男に恋をした。親分ではなく、子分にである。
 魔性のアマネは別のことを考えながら男を籠絡するのに慣れていたから、親分との交渉を平然と進めつつ、ちらちらと子分を盗み見た。その度花が咲くような気持ちになる。空色の瞳はどんどん潤んで、声はパンケーキほどに甘くなり、髪が重く彼女の身体を這うのすら艶めかしくなっていく。結果、親分はすっかりアマネに夢中になり、アマネの提案する情報をうんと高値で買うと約束した。
 アマネは生まれて初めて焦りを覚えた。恋をしたら、すっかり自分の持ってきた仕事をやるのが嫌になってしまった。彼以外を籠絡することになんの面白みも感じない。しかし仕事は決まってしまい、情報屋の親分はアマネに夢中で、肝心の子分は最後まで一言も発さなかった。仕事を放棄し親分を振って子分と駆け落ちをするしかない。でも親分に逆上されればどうなるかわからないし、子分がアマネをどう思っているかはわからない。

 アマネは悩んだ挙句、親分の言う通りに仕事をこなした。アマネが生まれてから十二度目の夜の季節七年目、アマネの勤めていた施設が逆賊に乗っ取られた。アマネが男達を魅了して盗んだ数々の貴重な情報は、親分を通して逆賊の手に渡っていたのだ。信じられないほどの重大な情報漏洩が原因であることはすぐに突き止められ、アマネの父は失職した。国の中で最も肝要な施設が奪われたことで、住民はみるみる自由を失い恐怖に怯えた。逆賊と手を組んだ他国の軍が押し寄せ、街全体を包囲する。
 アマネは両親を置いて親分の元へ逃げた。いまや官軍である逆賊を支持した情報屋は見逃されているが、朝の住まいとしていた地下へ追いやられ毎日を重たい暗闇で過ごしている。親分いわく、国全体の侵略が済めば自由に外を歩けるようになるそうで、学の無いアマネはそれをただ信じた。
 地上は暴力と恐怖の嵐だが、地下は奇妙なほどに静かである。地下の街の一番奥で、アマネは親分すら尻に敷いて、闇に住まう男達を侍らせる女王として君臨した。
 地下で過ごして数日、名前の知らないたくさんの部下を丸めて椅子にした。アマネはスパンコールで夜空より豊かに輝くドレスから白い蛇のような脚をゆらめかせ、ゆっくり、ゆっくり、ぴんと伸ばした。名も知らぬ部下は、それを目で追って、決して触れないように(触れれば親分に目を潰される)顔を近づけ、だらしなく涎を垂らした。アマネはそれをつまらなそうに見ながら「パパとママを探してくれる?」と聞いた。その場に親分はいなかった。部下はおそるおそる発言した。
「それは、アマネ様が、お父様とお母様を愛しているということですか」
「当然よ。パパとママが大好き。パパは男の人なのにわたしに惑わされないし、わたしが楽しめる仕事を紹介してくれた。ママはずっとベッドで寝てるからあんまり会ったことないけど、会うたびわたしにキスしてくれたし、わたしの才能を知っていながら叱らないで見守ってくれたわ。二人に会いたい。怖い人に襲われて震えてるなんてかわいそうだわ。パパもママもここで一緒に暮らすの」
 部下達は動揺した。壁の隅に立っていた例の子分は、彼女を軽蔑した。
 パパとママを愛しているから一緒に平和に暮らしたい? 街の平和、両親の地位の破壊、全てのトリガーはこの女の行動だというのに。街の権力者であったアマネの実家がまともに残っているわけがない。見せしめに、一番に破壊された。アマネはそこまで考えてこなかった。ただ面白そうだから情報を売った。街がめちゃくちゃになっているのも、ちょっとスリルがあって良いと思っていた。すぐ地下に籠ったから現状を知らなかった。大切に築き上げてきた全て、その中には愛する娘も含まれているのだが、そういうものを失った二人がどうなるかなど想像の範囲外だった。部下は知る由も無いが、母親が寝たきりになったのだってアマネが弟を殺したからだ。その時のアマネには、母親がアマネと同じだけ弟を愛していて失ったら身体を壊すまでショックを受けるなんて想像できなかった。いまだってよくわかっていない。ふたりが愛するのは自分だけでよかった。パパとママを愛しているなんてあまりに当然のことで、この日まで口にしたことも無かった。
 部下が黙ってしまったので、アマネは彼の顔を蹴り上げて泣き真似をした。親分が飛んできて、部下の目玉を潰す。訳を聞いて「両親を愛しているのか」と部下と同じことを問う。動揺しながらも、投げやりに「探してやるとも」と返した。

 両親が連れてこられることは無かった。アマネは相変わらず親分と部下を尻に敷いて、時々両親を想いしとしと泣いてより一層男達を魅了した。だが、肝心の想い人はアマネに興味を示さなかった。従順ではあったが、それは彼の主君の主君がアマネであるからというだけ。アマネを見る瞳が何年も変わらず怪訝な若い人のそれであることに、アマネは酷く悩まされ、胸の痛みに悶えて眠れない日々が続いた。じきにその痛みすら快感となって、アマネは用も無いのに彼を呼びつけ中身の無い世間話に付き合わせては、彼の態度に頬を染める。
 この頃になってようやく親分がアマネの恋心に気づく。アマネの心を取り戻そうと苦心するが、元々アマネは子分以外に心を向けたことが無いので、当然うまくいかない。親分はアマネへの尋常ならざる好意が報われることが無いと絶望し、アマネと子分を憎むようになった。
 鋭い憎しみはまず子分に向いた。地下に住む彼らは地上へ食料を調達しに行く必要があったが、子分をその役割に任命したのだ。危険な地上へ赴くことに対して子分は何の文句も言わなかった。
 アマネは泣いて命令を取り消すよう親分に縋ったが、それが自分への心が無い懇願だとわかっている親分は取り合わなかった。
「今までだって何度も部下を地上へ差し向けてきた。俺達が生きるためだ。でもお前は一度も抗議などしたことがなかったろう。いいか、もう決まったことだ。あいつは撃ち殺されて、そのまま地面に還るんだ」
 アマネは弟の死体を思い出した。死んだ者は、まとめてロケットに詰め込んで宇宙へ飛ばす。やがて降ってくる雨に、故人を想って身を濡らす。アマネは死体の水など被りたくないと思って、弟の雨が降る時も外へ出なかった。
 地下の重力が強いのは、雨になって地面に染み込んだ死人が星の中心へ引きずり込もうとしているからという伝承があった。アマネは急に身体が二倍にも三倍にも重たくなったように感じた。弟が、きっと宇宙で死んだ教師達が、心を弄び死に至った男達が、アマネを呼んでいる。
 アマネは獣の様な唸り声を上げてうずくまった。生まれて初めて悲しかった。両親のために流した正体不明の切ない涙とは異なった。親分は自分を弄んだ女への報復を完遂し、勝ち誇った気持ちで、しかし愛する人が泣いている痛ましさで、アマネの頭を撫でようとした。
 アマネは親分の手に噛みついた。輝く真珠の歯は丈夫で、キスで鍛えた華奢な顎は強く、親分の大きな手に穴を開けた。驚いて転んだ親分の首を、夜空の髪で括り、力いっぱい締め上げる。
 周囲の男は誰一人アマネを止められなかった。彼女の行動が信じられないから、アマネを好いているから、アマネを独り占めしてきた親分を憎んでいたから。いつか愛は弾けるものと、全員が知っていたのかもしれない。死体のように。
 アマネは動かなくなった親分の懐からナイフを取り出して、自分の髪を絶った。足元まであった髪を顎の高さにまで切ってしまうと、感じる重力が地上よりもずっと軽くなったように思えて、星の転がるように笑った。初めて歓楽街へ向かった時と同じ無垢な笑い声であった。親分に与えられた宝飾品を床に投げ、豪奢なドレスを脱ぎ、下着の薄いワンピースだけになって地上へ駆ける。

 地上は、アマネが地下へ潜った頃より随分静かになっていた。元の住民の殆どが殺されたか攫われたかで、逆賊や他国の兵士がそこかしこに立って見張っているだけで、銃声も聞こえない。きっともう侵略は終わった。親分の言う通りなら、もう地下へ籠らなくてよいはずだった。兵士達は、笑いながら駆ける美少女を現実のものとは思えず、銃を降ろしたままぼうっと眺めていた。
 アマネは変わり果てた街を駆け回った。学校の残骸、イリスの職場、かつての自宅。石造りの暖かい夜の家が瓦礫と化している。両親の水袋など残っているわけがない。あれは脆く、針でつつけば破れてしまうのだから。瓦礫の重さに耐えられるわけがない。
 アマネは子分の名前を呼ぼうとして、知らないことに気がついた。何年も恋をしていたのに、名前も知らないなんて。アマネは途方に暮れて、瓦礫の上を歩き回った。
「こぶーん……」
 親分が親分だから、子分を子分と呼んでいた。心の中で。
「こぶーん……。意地悪な妖精さん……栗毛のくるくるちゃん……冷たい夜の君……唯一、わたしの、好きな人……だ、だいすきぃ、な、人……」
 聞こえてほしいのに聞こえてほしくなくて、アマネの声はどんどん小さくなっていった。愚かなまでに甘い自分の声が反響する。好きな人の話をする幸せそうなイリスを思い出した。もっと早く子分に出会って好きになっていたら、この甘さをイリスと共有できたかしら。心細さに両親の顔を思い出す。生まれたばかりすぐに殺した弟の顔も。自分に夢中になる人々の甘い瞳も。涙で視界が滲む。零れた液体が白い身体を冷やす。アマネは躓き、瓦礫のてっぺんから地面までごろごろ転がり落ちた。頭や身体をたくさん打ち付けた。夢のように白い魔性の身体が、痣やぬめった血液に塗れていく。爽やかな青空の瞳は、砂が入って開けられない。
 仰向けに寝転んでもう一度「こぶーん……」と鳴く。頭からどくどくとアマネが流れ出していく。妖精だった美しい身体の表面に膜ができ、身体が溶けて、水になる。夜に光る星々の輝きが薄れていく。朝の季節が訪れる。
 アマネが生まれてから十三度目の朝の季節一年目、彼女を雨にする者はいない。

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