「錯覚」(2618文字)


 視界のずっと奥の方から、光が放射状に広がっていく。ビームのように放たれた色彩が流れていく中、穏やかな海が揺らめくように人の影も流れていく。真っ暗な闇、光に切り取られた場所、たくさんの人間が限られた場所で踊り狂うのが、ここからだと良く見える。

 店内に満ちていたのは、内臓を直接掴むような音楽だった。首の後ろで脈が血液を送り出していく音が僕の脳内でしつこく繰り返されていて、飲みすぎたジンが僕の意識を現実から遠ざけていく。それなりに有名らしいDJが、繊細な手つきで玩具のような機器を弄っている様子が、目の前のスクリーンに映し出されている。EDMの作り出すピッチは人間の本能を刺激するリズムを参考に作られている。到底、音楽を奏でていると思えない、妙な動きの操作で、その身を委ねていく群衆を見るのは可笑しかった。手前でキスをしていた肌の浅黒い女と目が合った。けれど、瞬きをした瞬間、その女はすっかり消えていてそんな女が本当にそこに居たのかも分からなくなった。

 出入口に近いバーに寄りかかりながら、それでもそこから動くことは無く、ただ時間が過ぎるのを待っていた。僕をここに連れてきた会社の同僚は、入店してすぐに話し始めた学生の女と随分と前に店外へ出ていった。こんな場所に来るのは数年ぶりで、学生の時が最後だっただろうか。

「ここ、最高」

 あまりにもリアルな声が脳内に触れてきて、椅子から転げ落ちそうになった。隣にいた女が僕に話しかけていたと分かったのは、切り取られた光の中で女の大きな瞳がはっきりと僕を捉えていたからだ。

「ねぇ。ここ最高じゃない」

「ここが?」

 次々と光が流れていき、本能を刺激するリズムが満ちていて、酒が意識を惑わす。そうか。そう言われると、ここは最高なのかもな、そう思った。酔っている意識を整えようと、煙草を咥える。指先に力を込めて、火が灯ると女の顔が浮かび上がった。相当な美人だった。話し方や態度にも聡明さが感じられる。揺らぐ炎に映し出された彼女の存在が、本当に現実か分からなくさせた。この女は一体なんなんだろう。火は消えて、煙を大きく吸い込んだ。

「二十二」

 暗闇の中、聞いてもいないのに彼女が僕の耳元でそう囁いた。あぁ、やっぱり。彼女は、僕だけに見える幻想じゃないかと思った。曲は最高潮に盛り上がり、震えた空気が僕の心臓を確実に捉えている。

「ねぇ、最高よ」

「ひとり?」

「そう、私だけ」

 彼女は笑顔のまま僕の肩に手を置いて、その軽やかな体重を預けた。瞬間、髪が乱れて心地の良い匂いがする。その重みや匂いに、どこか懐かしさがあった。酩酊した意識は、まだきっと戻りそうにない。

「あなたはひとりじゃないの?」

「会社の同僚と来てたんだ。もう、俺だけになった」

「ふぅん」

「だから、もう、ひとりだよ」

「それでいいのよ」

 僕はまた今日もきっと最初から「ひとり」だったし、それは明日も、きっとそうに違いなかった。頭を誰かに殴られたような痛みが残っている。構うことなく、グラスに注がれていた透明な液体を、一気に流し込んだ。今日、あいつは部署の上司の愚痴を話し続けていた。僕は、自分の部署と関係ない上司にも興味が持てなかったし、ほとんど聞いているフリをしながら相槌を打ち続けていた。きっと、話をしている同僚自身にも、興味が無いことはとっくに向こうにもばれているだろう。社会的に、年齢的に、性別的に、人生を描いているベクトルがたまたま一致していただけに過ぎない。本質的な部分ではお互い全く違うことを理解している。だからこそ、毎週のように飲める相手なのだろうか。

 ブースの奥から光が放射状に放たれる。それぞれが違う方向を目指し店内を流れていく。一点から始まった幾つもの光は、交わることは無い。

「ねぇ、最高だった?」

 女は顔を傾けて、こちらを覗き込んでいる。踊り続けるシルエットから、光が飛んでくる。色彩の中で、塵が空気を滑るように舞っていく。

「そりゃあ」

「なんでひとりに。昔は最高だったんでしょ?」

「場所じゃないんだ。誰といるかによって、きっと違うんだ」

「そう。じゃあ、今のあなたは誰といるの?」

「………」

「あなたは仕方なくひとりなってしまったんじゃないの。だから、こうしてここから見ているんだわ。あそこに仮に行ったとしても、もう満たされないことを知っているくせに。あなたは結局求めているのよ。求めていないと怖いから」

 彼女が指した方向では、男と女のシルエットが波を打っている。その駆け引きに加わる気はない。誰と話しているのか分からないまま、冷や汗が鳩尾に流れ込んでいった。

「真の友をもてないのは、まったくみじめな孤独である。友人がなければ、世界は荒野にすぎない。…何度も言ってた言葉、覚えちゃったわ」

 女はフランシスベーコンの言葉を放った。大学生の時の近代哲学の講義の時に知ったイギリスの貴族で、それは確かに僕の記憶に微かに残っている言葉だった。ひょっとすると、僕の青春は、無意識にその言葉を確かめるように駆け抜けていたのかもしれない。あぁ、そうなんだ、という風に僕は理解をし始める。光を見つめる女の目元に、特徴的な黒子が二つ並んでいるのが見えた。あれは、僕も二十二の時だろう。僕が絶頂を迎える時には決まって、この並んだ黒子をうっとりと見つめていたことを思い出した。

「仕方がないことだわ」

 煙を吐くと、暗がりにようやく男が見えた。蠢くシルエットの中、こちらを見つめている。そいつは誰よりも楽しそうに笑っていた。心臓が激しく鳴っている。光が天井を流れていく、交わることもなく進み続ける光に、僕はやはりこうして途方に暮れるしかなかった。

「時間は距離よりもずっと遠いもの」

 いつの間にか、男は消えていた。踊り狂う人々は、まだそのままだ。熱を持った涙が、僕の頬を流れていった時、現実に落とされていく感じがした。脈を打つ強いリズムがアルコールを身体の隅々まで運び、惑わせていく。

「…それでも。そう思っていたんだ。時に、若さは暴力だ。考えを極端にさせる。きっと、俺もあいつも。俺はただあいつといれれば、それだけでー」

 じっとりと重い店内の空気が、急速に冴えていって、僕ははっきりと目を見開いた。僕の寄りかかっていたバーには誰もいなかったし、すぐ後ろの扉が開く気配がして、また新しい人間の足音が聞こえた。眼前には、限られた光の中で人間が踊っていた。そこに飛び込む勇気は出ない。


光の中で人間が踊っている、波は止まらずに入れ替わりながら。

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