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『私の推しは悪役令嬢。』アニメ第3話の謎すぎる同性愛者説明


第3話の例のシーンを振り返る

 テレビアニメ『私の推しは悪役令嬢。』(以下、『わた推し』)の第3話が放送されました。アニメ版のセリフから完璧に引用するのはちょっと難しいので、ほぼ同内容である原作該当箇所で振り返ってみましょう。ちなみに原作はKindle版を使います。以下、1巻の「第一章 乙女ゲーム世界への転生」からです。

 あっけらかんと言った私に対して、クレア様がそっと距離を取った。離れられた分、距離を詰める。すると、その分また離れられてしまった。
「どうして距離を取るんです?」
「身の危険を感じるからですわよ」
「そんな、何にもしませんってば」
「どうだか」
 まあ、同性愛者に対する反応なんてこんなものである。一般に、同性愛者という存在は、その性的指向の部分が強調されがちだ。前世においても同性愛者はまるで全ての同性を性的対象として見るかのような描かれ方をされる事が多かった。結果、同性愛者だというだけで、「襲わないでね」という反応になる訳である。この世界においてメディアはそれほど発達していないけど、やはり戯曲や小説で描かれる同性愛者は似たようなものだった。

いのり。『私の推しは悪役令嬢。』Kindle版 第一章 乙女ゲーム世界への転生 より
(※以下、同様につき省略)

 まずここからおかしいです。主人公が「襲わないでね」という反応をされたのは、これまで散々セクハラをしまくったからです。それなのに何故、社会の同性愛差別が悪いみたいな話が出てくるのでしょうか? 主人公の性的指向の部分を安易に強調されたのは、主人公自身の身から出た錆です。日頃の行いがよければ普通に接してくれた可能性だって大いにあったはずなのです。一体何故自分が悪くないかのように独白を始めたのか謎がすぎます。

「クレア様。同性愛者だからといって、その反応は偏見がすぎるかと存じます」

 本当に偏見なのでしょうか? 主人公は思いっきり裸を物色していましたが。

「クレア様が男性に、『襲うなよ』と言われたらどう思いますか?」
「わたくしはそんな痴女じゃありませんわよ!」
「そうですよね。でも、クレア様がレイに言ったことは、まさにそういうことですよ」
「……あ」

 同じことを繰り返しますが、主人公の行為を散々嫌がっていたクレアには「襲うなよ」と言う権利が十二分にあるのではないでしょうか。主人公が「痴女」と呼ばれても本人が悪いだけのように感じますけど。

 ミシャの認識はとても健全で正しい。同性愛者というのはただ性的指向が普通の人と異なっているだけで、他はまったく変わらない。常に欲情しているわけではないし、むやみやたらと性的な言動をするわけでもない。

 意図的なのか一般論を個別事案と混ぜていますが、同性愛差別を上記引用のように糾弾したところで、主人公の悪行が無罪化するわけではありません。セクハラはセクハラです。

 同性間に向けられた性欲はフェイク・おふざけという扱い自体が同性愛差別です。その理屈により、ジャニー喜多川の性加害は放置され続けてきたのです。

「ま、まあ……。好きになった相手がたまたま女性だったというだけですよね。性別なんて関係ないってことですよね」
「ん?それは違うよ?」
「え?」
「性別はちゃんと関係ある」
「そ、そうなの?」

同性愛者は異性を性的な意味で好きにならない。好きになれば性別は関係ないというのは、あるいは理屈としては正しいのかもしれないけど、少なくとも私は男性を好きにはならない。性別は、ちゃんと関係あるのだ。

 これもよくある一般論ですが、この作中においては非常に伝わりにくい表現です。何故なら、主人公の性的指向の説明が、情報羅列説明でしか表現されず、特にアニメのような媒体になると視聴者が感覚的に掴むのは非常に難しいでしょう。逆に、こういった一節がないと、この作品の主人公はたまたま好きな相手が女性だっただけの人にしか見えてこないのです。

 何故、「異性を性的な意味で好きにならない」と言っている主人公が、異性愛者女性に向けて製作・販売された乙女ゲームに出会ったのでしょうか? その説明はこれまでどこかにあったでしょうか? 何のフォローもなく、ああいったゲームをプレイしている人物から「男性を好きにはならない」と言われてもピンとこない人は、おそらく多いのではないでしょうか。

(メタ的に言えば、乙女ゲームを舞台にした悪役令嬢ものというノベルにすると閲覧数が稼げるだけという、それだけの理由になりますが。)


・とても怪しい同性愛者認識

「あなた、そういうことばっかり言っているから、私も身の危険を感じるんですのよ?」
 うん、その点は全面的に私が悪い。言ってみれば、前世において同性愛者の偏見をまき散らしていた、同性愛を売りにする芸能人のような振る舞いを私自身がしているようなものである。
 でも――。
「茶化さないとやっていけないんですよねー」

 私はテレビをほとんど見ないので正直自信が無いのですが、ここの「前世において同性愛者の偏見をまき散らしていた、同性愛を売りにする芸能人」なるものが謎で仕方がありません。これは一体誰の話をしているのでしょうか?

 上記引用から少し後の文章になりますが、『わた推し』には以下のようにも書かれています。

 前世において、よく、同性愛者への偏見を無くそうとする識者が、テレビに出てくる同性愛を売りにした芸能人を批判することがあった。その主張はきっと正しくはあるのだろう。でも、私はこうも思う。真偽のほどは定かじゃ無いけど、茶化してでもいないとやってられない人もいるんじゃないか、と。
 もちろん、そういう芸能人が偏見を拡大しているのは事実だ。出来れば偏見もなくなった方がいい。でも、現実にいる同性愛者の人でも、わざとそういった偏見が求めるような振る舞いを自らする人は一定数存在する。理由は人それぞれだろうが、中にはいると思うのだ。茶化さないと生きていくのが辛いっていう人たちが。

 はてさて、一体これはどの芸能人の話なのでしょうか? オネエキャラを売りにする芸能人はけっこういるみたいですが、批判されるような「同性愛を売りに」する芸能人とは誰のことなのでしょうか?

 狭義から考えてみましょう。佐良直美事件からレズビアンは芸能界にいることはできないみたいなことが言われてきました。それは別に客観的事実ではありませんが、現実としてはレズビアンであることを公表していた芸能人というのは、歴史的には滅多に聞かない存在でした。レズビアンだけではなく、“オナベ”みたいなキャラクターで売っていた芸能人も似たようなところだと思います。

 その後しばらくして、レズビアンを公表して活動する芸能人が何人か登場するようになります。いろいろと批判もありましたが、いずれもその表現方法は人権問題寄りなもので、『わた推し』で言うような「同性愛者への偏見を無くそうとする識者が、テレビに出てくる同性愛を売りにした芸能人を批判すること」に全然つながりません。

 どうも女性同性愛者は当てはまらないようなので、意味を男性に広げてみましょう。(女性同性愛者に関わる問題は女性全般への差別も絡んでくるので、「同性愛者の問題は男も女も同じ!」という理屈に従うのは不本意ですが。)

 この方は芸能人ではありませんが、テレビで同性愛を売りに出演しました。しかしながら、番組出演者からは引かれるし、同じ当事者からも非難囂々だしで、上手くいったようには見えません。

 おそらく男性同性愛者が「同性愛を売りにする」となると、こうなってしまう気がするのですが、これに近い芸をやっている芸能人というのはいるのでしょうか?

 残る可能性は、『わた推し』が指す「同性愛を売りにする」芸能人というのが、いわゆる“オネエ”で売っている芸能人ではないかということです。

 しかし、“オネエ”売り芸能人が全員同性愛者というのはただの幼稚な偏見であり、“オネエ”と異性愛は普通に両立もします。しかも、「あいつは営業で“オネエ”やってるだけで、カメラがないと別人」なんて人もいるわけです。

 このあたりは一般のテレビに詳しくない私では自信を持って述べられないのですが、そもそも“オネエ”売りの芸能人はあまり性愛を売りにしているようには見えません。どちらかというと、“オネエ”という立場から強めの言葉で語ったりツッコミを入れたりするのがウケていたり、男性の身体で女性の衣装・仕草を用い笑いをとろうとする芸が多いように思います。

 もし『わた推し』が「同性愛者と“オネエ”は同じ」というような雑でステレオタイプな知識で同性愛者を語っているのだとしたら、呆れ返って失神してしまいそうですが、ちゃんとした何かしらのモデルがきちんと存在しているのを祈ります。

 あと、『わた推し』の主人公は自身の性的指向を初めから茶化してなんかいません。この場合の「茶化す」というのはあくまで自分自身をネタにして笑いをとろうすることであり、散々繰り返したセクハラや迷惑行為はただの他者への加害です。同性愛者が自身を茶化す時にとる行動を性加害とするのは、極めて深刻な差別描写です。


・やっぱりめちゃくちゃ人権感覚

「はい、この話はここまで。じゃあ、クレア様。いつも通りイチャイチャしましょうか」
「しませんわよ!!ってか、したことありませんわよ!」
「またまた。まんざらでもないくせに」
「寝言は寝てからおっしゃい!」
「あはは」
 もう完全にいつも通りだ。さっきまでのシリアスな感じは霧散している。私がクレア様をいじり、クレア様がムキになり、レーネが宥めて、ミシャがそれを見守っている。本当にいつも通りだ。

 このパートは後半に進むにつれてアニメ版ではそのまま言語化されなくなっていく気がしますが、だいたい上記引用のような感じで締められていきます。しかし、「私がクレア様をいじり」は、「これはいじめじゃないよ、いじりだよ」の理屈とまったくの同レベルで、やはり前回書いたように、とにかく人権感覚がめちゃくちゃです。

 同性愛者をやんちゃなペットの犬・猫と同じ扱いにするのは、あまりにも侮辱的ではないでしょうか。


・ちょっと省みて欲しい自己評価

 原作者の人はアニメ版第3話をこのように語っています。まずその内容の出来に見合わない上から目線に驚きますが、繰り返すように『わた推し』の主人公がやっているのは道化などではなく性加害ですし、「本心ではない」は犯罪の大義名分にはなりません。子への虐待で逮捕された親が「本心ではやりたくなかった」なんて言うこともあるでしょう。ジャニー喜多川も彼自身が少年時代に性虐待を受けていたという憶測もされていたりしますが、それが本当だとして彼を許そうなどという話には決してならないでしょう。

 原作者の人に「心の片隅においていただければ」などと不特定多数へ説教する権利があるとは思えません。むしろ、様々な人から出ている作品に対する批判をしっかりと受け止めていただきたいと思います。



第3話絶賛という最大の謎

 さて。Twitter/Xを見てると、『わた推し』はこのアニメ第3話を持って、大変先進的なレズビアンアニメだという話で盛り上がっていました。

 しかし、上記に書いたように、『わた推し』第3話も同性愛者に対して偏見だらけな上に差別的な描写であふれており、むしろ古い時代に戻った感すらあります。何より、「茶化さないとやっていられない」という理屈でセクハラに許しを請う態度は、反差別運動を行ってきた先人の努力を踏みにじる行為でしょう。

 確かに、ラノベ業界を見るとやべー作品が商業で大々的に販売されていたりするので、そんなラノベ業界に一石を投じるという意味なら『わた推し』の評価もわからなくもありません。

 しかし、見ていると、どうもそういう狭い意味ではなく、百合作品全体が今まで遅れていたと言わんばかりです。


・古い作品と比較しても…

 では、『わた推し』が古い作品よりも進んでいるかと言えば、やはりそういうわけでは一切なく、同性愛者表象としては、古い漫画である『LOVE MY LIFE』(やまじえびね)に余裕で負けています。

 私が『LOVE MY LIFE』を基準とするのは、この漫画が2000年~2001年に発表された娯楽フィクションであることと、(評判が悪いとはいえ)実写映画化されて一定の知名度を得ているからです。2020年ごろにもなって20年ぐらい昔の『LOVE MY LIFE』の同性愛者表象を下回るようでは、同性愛を人権問題として語る土俵にすら立てていません。

さて
こんにちは
わたしはいちこ

もう覚えてくれた?
ところで
最近やっと
レズビアンだって
自覚がもてるように
なってきました!
それまではわたし
好きになったエリーが
たまたま女の子
だったんだって
思ってたんだけど
考えてみたら
それはちがう
全然ちがった
だって
男の子のエリーなんて
ありえないし
男の子だったら
エリーじゃないもの
わたしはエリーが
大好きで
エリーがしてくれることは
どんなことでも
気持ちいいと
感じるから
自分にとって
女の子と愛しあうことは
とても自然なことなんだ
ってすごく思う

やまじえびね 『LOVE MY LIFE』 第4話 冒頭より

 主人公の「いちこ」が自身の性的指向を語るモノローグですが、『わた推し』にはまったく描かれていない同性愛心理の奥深さにしっかりと触れています。ついでに、妙にこだわる人たちがいるレズビアン表明も、ごくごく普通にされてもいます。これが2000年に発表された漫画なのです。

さて
こんにちは
わたしはいちこ
いまね
わたしはいったい
いつからレズビアン
なんだろう
なんてことを
考えてる
考えてみると
わたし
パパとミュージシャン以外で
男の人を好きになった
記憶が全然ない
そうなんだ
いつだって
わたしのあこがれは
女の人だった
でもずっと
「これは恋じゃない」って
思ってたわけ
わたしは11の時
ママを亡くしたから
きっとママが恋しいんだって
女の人にひかれて
しまうのはわたしが
大人になってないから
なんだってね
だけど
エリーに出会って
そんな考えは
ふっとんじゃったな
わたしがエリーに
求めるのは
恋の共同経営者
セックスのパートナー
そのことが
はっきりわかった
ママとはまったく
ちがうもの
エリーはママの
かわりじゃない

やまじえびね 『LOVE MY LIFE』 第5話 冒頭より

 ここのモノローグも重要なところです。レズビアン自認をしつつ「パパとミュージシャン」は例外だったと述べています。

 何気に男性アイドルを追っかけているレズビアン女性も珍しくはなかったりします。この記事で『わた推し』の主人公が乙女ゲームをやってるのに説明はあっただろうかと書きましたが、『わた推し』の描写にはそれぐらいの幅がまったく計算されていません。「同性愛者は同性のみを好きになる」という断片知識だけで「正確な同性愛者を描きました!」みたいな態度をとっているのが『わた推し』なのです。それ故に、『わた推し』の主人公は、本記事で引用したパートのようなピンポイント説明が入らないと、「たまたま好きになった相手が同性だった人」ぐらいにしか見えてこないのです。


・忘れてませんか? 「百合で性的同意」。

 そもそも、『わた推し』への盛り上がりを見ると、『作りたい女と食べたい女』の「百合で性的同意!」の盛り上がりは一体何だったのでしょうか?

 あれだけ性的同意にこだわりを持った人たちが、『わた推し』のセクハラをとにかく擁護し始めるのが謎で仕方ありません。作品自体が謎なら、その盛り上がりまで謎めいていて、極めて難解な現象になっていように思います。


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