思い出の五右衛門風呂。
あの頃はまだ小さかったからなあ。ついてるかつかついていないかくらいしか違わなかったけど、一緒に入った時にはどきどきしたなあ。着物を取ればこんななんだぁと思ったんよ。
監督さんが「次、五右衛門風呂いくよ」って言った時、パンツ、脱げなかったもんなあ。こっちが恥じらっているのに、みよちゃんたらぱぱっと、それは潔のいいもんだった。
眩しかったなあ。その眩しさに負けて、ずっとパンツ、下ろしたんだっけ。
夕日が海に沈む時間の撮影で、せっかく裸のみよちゃんなのに、光を受けて後ろからだと影絵にしか見えなっくって。
でっかい五右衛門風呂だった。担任先生と(おんなの人)と生徒が4人、合わせて5人が一緒に入れたんよ。大人でもよっこらしょって、縁につかまってそろり足先ぴんと伸ばして入らなきゃ危ないもんで、慎重に。子供にとっちゃ、冒険みたいなものだったんよ。
生徒にはみよちゃんと女の子がもうひとりいたけれど、誰だったかなあ。顔も忘れた。その五右衛門風呂にみんな一緒にごちゃっと入っても、みよちゃんしか眼中になかった。眼中にあったはずなのに、なぜが見たいのに横向いて、口笛吹いちゃったりしてたもんだから、しっかり見なかったんよ。
担任は大事なところをきちんとガードしてるのに、子供は素のまま。専用品がなかったからかもしれないけれど、どうせ気にしないだろ、くらいにしか思われちゃいなかったんだろな。田舎の僻地の岬の先の、滅多なことじゃよそ様がやっては来ない辺鄙な設定だったから、おおっぴらで明け透けな、大開放全開っていうの? そういうのを監督さんは撮りたかったんだろうと思うんよ。
あれから20年。みよちゃんも俺も映画とは無縁の仕事に就いている。クランクアップから2、3年は、小学生のへたへたな手紙のやり取りしてたけど、その後はトカゲを尻尾から捕まえたみたいに、ぷっつり切れて音沙汰もなくなった。
何してるかなあ、みよちゃん、今ごろ。立派な女になっているんだろうなあ。あそこもそこも成熟して、きっとそれぞれのパーツ、立派に育っているんだろうなあ。
ひとり見る夢は、大人になった2人があの頃に戻ってあの五右衛門風呂で海を見ながらとっぷり浸かっている姿。
今なら直視できるかなあ。口笛吹かずにすむかなあ。
かつて撮影したロケ地が保存されることになって、久しぶりに足を運んだ時のこと。五右衛門風呂は健在で、ふとそんなことに思いを巡らせた。
陽が沈むにはだいぶ早い時間帯だった。半日時間をつぶせば、あの日のように空と海が赤みがかっていく太陽に照らされて、陽が着水する水平線の1点を発光源にして、夕日が膨らんでいくだろう。夕日の時刻まで待てば、あの日のみよちゃんの影絵が鮮明に蘇ってくるような気がした。
五右衛門風呂は長い潮風に晒されて、底からサビが広がり大きな穴が空いていた。まるで現実と同じじゃないか。思いはどれだけ膨らませても、空いた穴からじょぼじょぼと漏れていく。
思い出も流出しはじめたら、なんてことを考えたら、急に寂しくなってしまった。ぽっかり空いた心の穴は、時間をかけて思い出を流しだすように広がっていく。涙が瞳から漏れ出す前に、僕はかつてのロケ地を後にした。