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『怒られない人』になったつもり。

 久しぶりに駅前の回転寿司でお持ち帰りの注文をした。
 わりとチャキチャキのお店なのに、ひとり年端のいったおばちゃん店員が板さんやほかの中居さんに急かされている。いや、急かされているというより、叱責されている。激励はない。

 労働力不足のおり、老働力▼▼▼に頼らざるを得ないんだろうな、そう思って持ち帰り分を握ってもらっているさなか、叱責していた中居さんのひとりに「大変ですね、慣れるまでは仕方ないのかも」と労ったら、すかさず「40年もあの調子」とため息混じりに返された。中居さんはとうの昔に呆れ返っていたのだった。

 汁物あがってるよ、お客さんを待たせちゃダメだよ。新しい持ち帰りのお客さんが窓口に来てるよ、見えないの、対応してよ。お会計だよ、見てわかんないの、何やってんの。
 狭い店内で、やらねばならないこととこなせる仕事が噛み合わず、慌ただしい。

 おばちゃん、指摘されるとたまにわかったふうな顔をして「やってますよ」と応えちゃう。ところがその反応が妙に信用ならない。「汁物、あがってるよ、温かいうちに出さなきゃダメだろ」の板さんの叱責に「今あがったから、出すところでした」と応えてしまうのだ。店内でバタバタやってて厨房を覗いてもいないのに、なぜ汁ができあがったばかりだとわかる? 板さんも客も諦観の領域に溜息を落とす。
 なのにそのおばちゃんときたら、さも一生懸命マックスみたいな顔をして、ピントのズレた対応に走る。しかも声は弾んで、さも楽しげにやってしまうものだから、落とした溜息を拾い上げ、すかさず苛立ちに変える。

 一昔前は「とろい」とか「KY」と言われていた人物像だが、今や人の気持ちを理解できないのは「ADHD」という病巣の病棟に放り込まれ、一線を画そうとする風潮の波のさなかにある。持って生まれたものだから仕方ない、個性なのか? そのように周囲の意識が共有される職場なら問題なかろう。だけど、そうもいかない仕事場もある。限られた人数で、適材適所の理想に現実が届かなければ、人はそれぞれ背伸びをしながら足りない部分を補い合っていかなければならない。そして中には、タライから水が溢れるように、補い合いきれない人物が出てくる。背伸びする気遣いの筋力が不十分で、爪先で体を持ち上げられないのだ。
 持ち帰りで何皿注文したかを伝える役割も担っているのだろう、「何皿の注文だったの?」こなせていない仕事を指摘されるおばちゃん、指摘されてから数えようとするものの、汁物の催促が横から再び入ってくる。
 どっちが先? それともいっぺんに? 同時に足を前に繰り出すと……。あれ、うまく前に進めない。
 一時が万事、しまいには持ち帰り分を全額前払いしたはずなのに、「一皿分抜けてました」と帰り際に向こうの落ち度で未払いとなった不足分を支払わされるハメに。できて当たり前のことができないと、本人もだろうけど、周囲も辛い。

 こうした怒られる人▼▼▼▼▼は、どこにでもいる。これまでの職場にもいたし、仕事で関わるお得意さんのオフィスでもたまに見かけることがあった。

 なぜ怒られる人は怒られてしまうのだろう? ADHDでは「人の気持ちを理解できない特性」と定義し、本人の意思とは関係なく他人を苛立たせてしまうとされている。
 でもその決めつけって、人権的に酷いことなんじゃね? なんだか外圧かけて「社会不適合」の特別室に追いやってるような気がしてならない。そうした狙った獲物を囲い込んでいくような狩猟的な追い込みではなく、違った方法で接することができればいいのにね。たとえば本人の思考回路を理解することから始めるとか。

 実は怒られてしまう人▼▼▼▼▼▼▼▼の問題は、今に始まったテーマではなく、わりと前から考えていた未解決の怪事件。それが最近進展があって、新しいアプローチを考えるに至る。それが『本人になったつもり法』。

 本人は、なぜ怒られているのかわからない。わからないから繰り返してしまう。では、どうするか、なのだ。
「あなたはADHDですよ」と言われたとする。すると病気なんだから仕方ないと開き直ることもできる。だけど、なんだか優劣をつけられ後方支援に回されたみたいで気に食わない。だから、もう少し考える。
 あれをやれ、これをやれ、と人を振りまわすほうが悪い、と決めるけることができる。だけど、振りまわされない人もいる。その差はどこにあるのだろうと悩む。きっとどこかが人と違うんだ、ということに気づく。違いはどこにある?

 答えは、シングルタスクにあった。

 同じような失敗は誰にでもある。でもマルチタスクなら、指摘した人の意図を考える。「汁物がまだ出てないよ」の裏側に(客に迷惑をかけるなよ)の意図を察知するから、汁物を出す際、客にこれでもかというほどの申し訳なさを顔を浮かべて「たいへんお待たせいたしました」と礼を尽くす。板さんの接客魂が、中居さんの手を通して客の前まで運ばれる。板さんの顔も立つし、立たせることもできる。
 問題は、シングルタスクで物事を考えるから大きくなり、伝播する。汁物出せ→出しますよ→オーディナリーな「お待たせしました」でひとつ仕事を終わらせようとする。これでは板さんの顔も立たないし、待たされた客も感情のざらつきに鎮めのヴェールもかけがたい。周りにも違和感の漣が走る。

 ADHDを語り始めればその裾野は広く収集がつかなくなってしまうけど、今回は回転寿司の中居さんのような人という限定で話をさせていただいている。
 私があの中居のおばちゃんだったなら、の『本人になったつもり法』でこの問題に取り組むならば、まずはシングルタスクの思考回路を2つに増やしてみることから始めてみようと決意する。この2本の思考回路は、やるべき単数仕事×2の複数化でもあるし、言葉と意図の裏表というふたつでもある。

 具体的には、という話はよそう。マルチタクス化マニュアルに汎用性はないので。

 それでも私は文面にならないところで微に入り細に入りを考えた。あれや、これ、それを組み合わせ、次第に私も育っていく。問題の根がシングルタスクにあったことを意識できれば、内側からその殻を破り外界に飛び出すことも可能になってくる。
 そして、ついに。このようにして私はマルチタスク領域に突入し、怒られない人▼▼▼▼▼▼に無事仲間入り、したつもりになった。

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