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男の側にある。

 細かいことに目配せ気配りを求められ卒なくこなすことができるのに、小さな厄介ごとに病むと女々しくなる。
 女々しさは、昨今、女を指す言葉ではなくなった。女性揶揄になるようなことをしたら、男女平等の理が黙っちゃいない。

 ところで、男女って平等になっちゃっていいの?
 生物学的に役割は違うし、トイレもお風呂も別々だし、きっちり線は引かれているっていうのにね。

 英語ではジェンダーエクイティという言葉を使い、ジェンダーイコーリティとは表現しない。男女は公平であって、平等ではないんだ。

 肉体労働をすれば総じて足の大きな男のほうが重い荷物を運びやすいし、裁縫時、針のあの小さな穴に糸を通すのに細く小さく白い指を所有する女のほうが有利に決まっている。裁縫の針を持つ手が日焼けのゴツゴツした手だったらイヤだもの。無骨な手と裁縫針という組み合わせってバランス悪いよね。あちこちよけいなところを刺してしまいそうだし。日傘にか弱い女が似合うように、しっくり馴染む組み合わせっていうものは確かに存在する。そこに、不平等が生まれる。「お手がじょうずにできたらおやつをあげる」と言われたら、猫は犬と比べて機会損失を被ることになる。不平等だ。
 それを力技で平等にしちゃうだなんて、あまりに勝手がすぎないだろうか?
 世の中すべてを平等にしちゃったら、肉体労働で女性は不利になるし、針仕事で男性は遅れをとることになる。平等が不平等を生んでしまうんだ。

 だから、条件を与えることで公平にする。エクイティっていう発想の素がここにある。これって、下駄を履かせて背丈をそろえるようなものだね。なのに日本ではイコーリティの『男女平等』をリフレインで叫んでる。
 変なの。

 あげ足取りが多いのか、それとも言葉どおりに受け取る素直さんが多いのかは知れんけど、日本の男女平等はもっともらしく定着し、男女のスタート地点をそろえてしまった。企業での出世、役職の獲得は同じゼロから始めて結果を出した者勝ちと平等を装いまんまと納得させられているけれど、実は器の底のほうで生じている微妙な差異を意図的に隠蔽しているのじゃないかしら。事務系仕事だとわかりにくいけど、肉体労働だとその差は歴然。重い荷物をたくさん運んだ実績者が昇給するとなったなら、女性不利は明らかだもんね。男が構築してきた《男性特性に適した構造》を持つ社会で女性特性は間違いなく苦労の種となる。

 構造に適しているかどうかでなく、意識面で比べてみると、女性は男性を上まわっている可能性はある。だけど、精神領域に関する優劣はメジャーで測れないものだから、論議は起こっても結論は出ない。

 いいじゃないの、男が女に負けたって。甘い言葉を囁き合う恋人同士だって、どうせせ結婚すりゃ男は女の尻に敷かれるものだもの。

 男性優位を信じる男なら、優っているぶん、弱者に下駄を履かせてあげたっていいじゃない。公正を期すなら当たり前のことなんだけどね。

 ほんとのところはわからなけど、譲歩は社会の歯車に滴る油となるものでしょ。水を差すよな私的異論は言いっこなし。優しくなければ男じゃないってかの名優も言ってたことだし。寛容になれなければ、その責任は慣用句みたいに言い継がれてきた男性優位を鵜呑みにしている男の側にある。

 きっとそのうち逆転現象が起こるだろうけど。つまり女性優位社会への。向田邦子さんが、地図が読めない女じゃ戦争はできないって言ってたなあ。ドンぱちが始まりそうな雲行き怪しい現代社会には、戦争をしない女たちに主役を張ってもらうっていうのがいいんじゃない?
 そんな女性優位な社会に不満を抱くようになったなら、今度は男性諸君が声を挙げればいいんじゃない?
「女男公平!」って。女性に下駄を履かせてもらうつもりがあるのなら、という話になるのだけれどもね。

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