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人生ゲーム。

 最近よく考えるんだ。この世に生まれた時からはじまるとても素敵な人生ゲームは、既存ボードゲームとそっくりなんじゃないかってね。ボードの上に生まれ出て、誰かの手で弄ばれるように動くコマなんだよ、きっと。そんなことをしきりにね。
 どこぞの頭のいい誰かが考え、それが形になって、トイザらスとかデパートとかから買ってきて、蓋開けて、取り出して、ルールを叩き込まれて、それから運命のサイコロなんかを振られちゃったりして、ひたすらゴールを目指す。すべて仕組まれた盤上で繰り広げられる、波乱に満ちた限りある人生だったのさ。

 ごくまれにホリエモンとか孫正義さんとかというゲームチェンジャー(この国ではとても珍しい現象と言われている)が、既存ゲームのボードを卓袱台チャブ台よろしくひっくり返すくらいで、ボクだってキミだって、ほとんどぜんぶの大半は出来合いの基板上を整流で進み、走り切っておしまいの電流みたいに短い生涯を終える。世間の流行というウェイヴに感電しちゃって、ビリビリしびれっぱなしの人生を電光石火で駆け抜けるのさ。

 社会の、浮くか沈むかの競争の渦中にいるうちには、生きる価値の重量など微塵も考えたことはなかったさ。どれだけ働いて出世して、どれだけ儲けて、いい暮らし、いい余暇時間ばかりを追っててね。コマの目からすれば、一手ずつ進みゆく道だけどそれはそれは広大で、果てしない。でも実はね、ボードゲームにはちょこんと置かれたボードゲームを包む空間が広がっていて、空間はどこぞの家だったりするわけで、となると玄関があって外に出ることも可能でさ、一歩踏み出せば道があって、その先には駅があり、乗って遠出をすればやっと大海に辿り着くなんてこと、ずっと知らずにいたんだね。
 だけど理想の中身は幻想で、進めども意識は今でも五里霧中。

 社会が、やれマイホームだ、マイカーだと煽り立ててきたものだから、他人と同じものを手に入れれば、ついはっぴぃえんどの大団円だよななどと勘違いしてきたんだね。意識が無意識のうちに、同調圧力に批准してしまっていたのさ。

 人をはじめ生きとし生けるものに前世があったかどうかについて、あれこれ突っ込みたくはないから議論になると真っ先に口は閉ざすけど、都合のいい過去の記憶はまやかしにしか聞こえないんだ。人は生まれた時から生きはじめ、尽きる瞬間におしまいなのさ。ゲームと違って「もうひと勝負!」は叶わない。あがいて生きても、もがいて生きても、人は生まれ出たオードゲームの盤上で、それぞれのテーマに影響を受け、文化・文明の潮流に洗われ、およそ1世紀未満を担って消えていく。それが儚さなのか、貴重なのかは、生きているうちにしか悩めない。小さく脆く、井戸の奥に沈んでいるボードゲームの盤上でしか悩めない。

 そんなことを、やる相手のいない『人生ゲーム』のルーレットを回しながら考えていた。



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