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大人の英断。

 名も顔も知らぬ彼が言う。「時代が変わってしまったんだよ」と。
 買えば済む時代が、モノへの興味を失わせたんだ。彼の言葉を引用すれば、そういうことになる。昨今は、自転車も調子を崩せば買い換えればいいという発想が横行する。なにゆえそのように思ったか。訊けば、目の前に壊れた自転車をショップに向けて押す若者の姿があったという。
「どうするの?」、問えば直すか買い換えるか迷っているという。
「どれどれ」、見るとチェーンが外れているだけの故障と呼ぶには烏滸おこがましい状態。昭和の剛健は、ちょっとやそっとのことでは揺らがない、ぐらつかない、折れない、倒れない。少し手を加えてやるだけで、指先は汚れるけれども直ることを知っている。経験を通して鍛えられてきたからだ。好むと好まざるとに関わらず、経験を押しつけられてきたからだ。

 ところが昨今の若者ときたら、手を汚すは一生の恥とばかりに自分の手は汚さない。自分ではやらない。あたかも、プロが相応の仕事をすればそれに勝るものはない、とその薄っぺらな信念を貫いているみたいに。

 名も顔も知らない彼は続けた。「若い世代はもうメカや造形物に興味が持てないのですよ」と。プラモデルを作ってきた世代とは違う。すでに出来上がった世界で得点を競うことばかりしてきたせいだ、と彼はいう。もう、昭和みたいにはいかないのだと。

 なるほど。現代の若者は彼の言うように、興味の対象が変わってしまったようだ。

 だけど、モノづくりをしない層が増殖すると、日本が声高に叫ぶ「モノづくり大国」はどうなってしまうのだろう? いつものようにに、あとになってから「昔はよかった」と蚊帳の外から我が事のように嘆くのだろうか。その言葉には重みはなく、見せかけのふり▼▼でしかないというのに。さも嘆くことが当たり前のような顔をして。

 この厚顔無恥め! と僕がなじる。
 そうじゃない。いや、若者に対して言っているんじゃない。学ぶ場を刈り取っておいてそりゃあないだろうと、若者を非難する大人たちに言っているんだよ。
 考えてもみてごらんよ。デジタルネイティブに包囲された職場で、あなたはその広い肩幅の肩身を狭くしてこなかっただろうか。デジタルネイティブは、生まれた時からIT機器を使いこなせたわけじゃない。なんとはなしにそばにあった機器にふれ、いじり、たまには壊し、そのような紆余曲折を経て使いこなしていくようになったんだ。鍛えられた賜物なんだよね。ちょうど昭和世代が、積み木やレゴで物を創造する面白みを喚起され、製造への興味を育まれ、何十分の1かの模型を組み立てては気づき改良し、勉強部屋一面に超小型の機動車を走らせるための鉄路を創造していったのと同じにね。

 モノづくりには、基礎を鍛えられる環境があった。だけど今は、プログラミングへの軌道は整っているものの、モノづくりへの礎がない。今の若者は、デジタルネイティブ集団に飛び込んだ昭和親父の裏返しなんだ。

 嘆く前に、やれ。嘆くなら、やれ。やらないなら嘆くな。
 どれだけ嘆いたって、モノづくりに興味のない者を振り返らせることはできない。あの物語が教えてくれたじゃないか。男のコートを剥ぎ取るのは北風じゃなかったでしょう?

 モノづくりに興味がなくったって、彼らには彼らの創造力がある。大人なら、太っ腹に構えていたっていいじゃないか。大きくかまえて、見守っていりゃいいんだよ。
 大人なら。
 大人になってしまったからこそ。

【世代間ギャップの視線に交差はない。】

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