ああ、神様、あなたは今いずこ。
「おや、珍しいこともあるもんだ。暁海がお手伝いだなんて。こりゃ雨でも降るかねえ」
子供の気まぐれな家事手伝いに、疑心暗鬼になってはいけない。行為に不審な翳りを感じて不吉をうっかり口にすると、よからぬ架空が現実となって顕れる。
おや? 雨。さっきまであんなに晴れていたってのに。
これはもしや、言葉の力?
公式化なされていない物理原則を、人はいまだに霊的現象として、理解の器から距離を置く。
それでも言葉巧みでもっともらしきものの波は大きく抗えない。
「言霊は実在するからね」
ーーなるほど、口にすれば意味が意志を持ち、現実となるんだわ。
うっかり話に乗ってしまうと、すでに波に呑まれている。
ところがどっこい、腑の落とし所でもあるまいに、人は策士の呪いにまんまと嵌められ、距離を置いた不確実な現実に疑念が氷解したみたいな顔をして、まんまと担がれているだけなのだ。人は野にウサギを追った昔から、尻尾の生えた別嬪さんをキツネだとは見抜けなかった。欺きは真実に紛れて悪戯に人心をたぶらかす。
してやられてはいけない。言葉に魂が宿るのではない。私たちはもとより、視界を遮られた曲がり角の先を予兆する力を少し与えられているだけだ。ちっぽけなもので、匂い袋ほどもない控えめな。それがふとしたきっかけに、たとえば我が子の家事手伝いなどで、紐をほどいて少し先の現実が薫風の如く発現する。それはまるで天の気まぐれそのもののように。
そしてそれは匂い袋にも満たないちっぽけな存在を生き長らえさせてきた与えられし防衛本能。
言葉に力があるなんてまやかしを口にする者を信じてはいけない。私たちは太古の昔から、少しも神様に近づいてはいない。神様はそれほど人類を信じてはいない。長い目で一皮剥けるのを静観しながら待っている。ときどき気まぐれで発現させながら導いてくれている。
信じるものについて考えている。縋ると自主が減るし、頼り切ると自分がなくなる。
自分を信じるには頼りないし、人を信用し切ると信用された人がたいへんになる。自分のほうがたいへんになることもある。
すべてを信じるわけにはいかないし、なにも信じないと日々の暮らしが大儀になる。スーパーで一品一品これは適正価格か? なんて疑っていると、買い物はいつまで経っても完結しない。
霊的力を信じることもできるが、しない。
かつてある神主さんに「神道も宗教だから」と切り出したところ、こちらが話し終える前に「神道は宗教ではありません」と遮られたことがあった。
他人の信じるものを侵犯してはいけないのだとその時強く思った。
とりあえず、自分の信じている道を歩むしかない。
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