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私はここにはおらんのです。

 墓参りで足を運んだのに、あなたは「私はここにはいません」と言う。死人のくせにどの口をもっていけしゃあしゃあとそんなこと。

 考えてみれば、たしかにあなたの言っていることは正論よ。肉体から抜け出た魂は、焼かれて残った骨に依存しない。せっかく自由の魂になったのだから、わざわざ墓石の下の骨壷の窮屈な居室にじめじめ惨めに籠っている意味なんてないものね。

 あたしゃ元から仏教の信徒じゃないから説法は馬の耳で聞き流すし、期待を空まわりさせる輪廻も信じない。ファンタジーにもすがらない。死んだらそこで、それまでよ。そう思ってきた。少なくともあなたの声が聞こえるまでは。
 
 死んでも記憶に生きるってのは遺された者の気休めで、なんら説得力をもたない我の骨頂だよね。うん、愚の骨頂。
 
 晴れて無に戻れるんですもの、それってかえって歓迎すべきことなんじゃない。
 あなたが生きた100年なんて、生まれる前に過ごしてきた無の何十世紀と比べたらちっぽけすぎて目視すらできない。
 
 無に帰せば、かえって安心するんじゃない? 「忘れていたよ。生まれる前はずっとこうだったんだ」てな具合にさ。
 無に帰すとは、元に戻るということ。そして再び始まるってことなんだよね。
 
 言葉は悪いよ。「無に帰す」って。言葉尻をとらえれば、なんにもなくなるってことだから。
 でも、真に受けるわけにはいかないじゃん。お墓にいないと宣言するあなたはほかのところにいる▼▼▼▼▼▼▼▼▼ってことだもんね。正確を期すと有無で表してはいけないってことだね、きっと。有無は明暗につながって、話を暗くする。
 色彩なんかで表現したら、ずっと話は明るくなる。そんな気しない? 色分けでぴんとこないのならば、階層で表すなんてどう? 地下から上がってきて地上に出て。地上が現世で、次の段階で空に昇る。でも空は地中で、階段を上がるごとに次の地上に近づいていく。
 
 輪廻は信じてなかったけど、哲学すると可能性って広がっていくものなんだね。思考が深めると、異色の明るい光が見えてきた。

 長くて100年。もうしばらくはこっちの世界で悶々と有る事無い事考えてみようと思ってる。明暗を明滅するみたいに生きてみようと思ってる。
 
 ねえ、聞いてる? それとももうどこかに行っちゃったのかしら。あなたは今どのあたりで吹き渡っているのですか?

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