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豆腐讃歌。

 豆腐は1丁50円前後のものでよかった。頓着がないから安いものでかまわない。あんまり好きな食べ物ではなかったし、進んで買う食材でもなかった。湯豆腐や冷奴など、豆腐がないとメニューとして成立しないものを仕上げるための購入。すき焼きには焼き豆腐、麻婆豆腐には絹ごしを欠かさなかったのは、儀礼的に世間の法則に則っていたからだ。
 南禅寺の湯豆腐は食べる。京都とセットでこなさないと、予定が完結しないから。お通しの冷奴も食べる。返品しても返金されないから。体たらくならぬ豆腐たらくは、長らく人生のお供だった。
 嫌いではないが好きではない豆腐であったが、あるとき、逆転現象が起きた。鵜飼のとうふを口にしたとき「なんじゃこりゃ」と、これまで食べてきた豆腐の常識が吹き飛んだ。牡蠣をミルキィーと喩えることはあるけれど、その豆腐、ミルキィーな牡蠣のような味わい。豆腐というものは本気を出すことで濃厚な旨みを発散することを知った。
 
 以来、豆腐といえば鵜飼となったが、基本、ざるどうふしか選ばないため、冷奴でいただく以外、食べ方にアレンジはない。それに頻繁に買えるほどお手軽価格でもない。値段は豆腐界のフェラーリといえるだろう。買いに行くのに手間も時間もかかる。贔屓目に見ても普段使いの気軽さはない。
 
 あるとき、すき焼きに焼き豆腐が必要となった。近隣のスーパーに買い出しに行くも、ない。寒い時期のことで、考えることは皆おなじなのか、売り切れ。
 仕方なく1丁180円の焼き豆腐を豆腐屋さんで買い求めた。鵜飼を除けば1丁180円の豆腐は存外に高い。ところが、である。食ったら味が濃くて美味い。鵜飼で豆腐の真髄を開眼させられたことで、豆腐の味を見極められるようになっていた。その豆腐、丁寧につくられている。
 以降、豆腐といえばその豆腐屋さんで買うようになった。絹ごし、最高。ショウガでいただいてもピータンと合わせても、豆腐の旨みを主張してくる。
 木綿も最高。白和えにしても豆腐の味が消えない。
 
 時代の風潮は物価を底上げしているけれど、豆腐屋さんはその波にたぶらかされずに価格据え置き、そんな心意気も味わい深い。結果として豆腐にかけるコストは上昇したけれども、豆腐をいただく楽しみ曲線も上昇したからよしとしている。
 豆腐は、その味に気づくことで、選ぶ豆腐が変わってくる。ふだんは近所の豆腐屋さんで、のち時々鵜飼。豆腐の消費量が以前と比べて格段と増えている。

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