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年式落ち編集者のつぶやき。

 今や欲しい情報のほとんどはネットでたいがいのものは見つけられる。だけど、欲しい情報中の欲しい的を射るような情報となると、レア度が上がるぶん困難を極め、探し当てるのに苦労したりする。結局見つからないなんてことも実際に起きる。
 それでもネットが普及する前と比べると、その差は歴然だ。かつて欲しい情報の入手は、彼女の声を聞くのにわざわざ外套を羽織り、外の公衆電話まで出かけなければならないくらいにめんどうだった。それが今やリビングで寝転んだまま携帯をいじれば手元に現れる。

 アナログの情報産業にどっぷり肩まで浸かっていた身としては、違和感を覚えずにはいられない。なぜならネット利用者が得られる情報は自分が知らないだけで周知の事実であり、特筆すべき点がない。情報が発信された直後は鮮度を放っても、重力がその恭しさを容赦なく削いでいく。

 ネット網を走り抜け全世界に行き渡った情報は、すでに財宝の輝きを失い、六本木のカローラとして異界に溶け込んでしまっている。

 アナログの情報産業時代には、ベテランの刑事よろしく、人知れぬ情報は足で稼ぐしかなかった。それは情報世界の風上に籍を置く者の特権であり、読者諸氏に対価を支払ってもらえるだけの価値があった。ところがデジタル普及という大激震は、情報の風上特権をことごとく剥がし取っていく。結果、職業を問うアンケートから『マスコミ』『出版』が消えていった。

 確かにデジタルに頼れば情報収集は楽チンで、業務の効率化にも貢献できる。
 だけど、万人に開かれた『解答』の浩瀚こうかんなるコピー(翻訳面でも、伝言ゲーム的な意味合いでも)は、人工知能と同じ。一般化されることで平準化され、ヒューマンエラーの起こす突然変異をことごとく潰していった。皮肉にも、平均点、ひいては人並みこそをよしとするこの国の管理体制と重なってくる。それを証すように、アップル・コンピュータ・レベルの創業の仕方という情報を入手しても、スティーブ・ジョブスの軌跡こそなぞれるけれども、誰も第二のスティーブ・ジョブスにはなり得ない。

 編集業とは、一般化されていない、つまりはまだよく知られていない情報を拾い上げ、メディアという空に放ることである。

 灯台下暗しの足元に落ちている原石を拾うのに起こすアクションは、己の殻を破ることであった。パソコンに向かい調べものを深めても、所詮は自分ひとりの視点から掘り下げていく手淫の井戸。ひとり昇天したとして、ほかの誰をも楽しませることはできない。だがそこに第三者の視点が加われば話は違ってくる。見せる自涜の話をしているのではない。洞察を深め、向けるベクトルの多様化をあてることではじめて光が動き、誤差に影をつくる。

 デジタルを使いこなす人々は、知り得る環境を手にいれ、かつてのアナログ情報網を凌駕したと思い込んでいる。自分は単眼でも、ネットを通せば複眼でものを見ることができると信じきっている。だが、過信は慢心につながり、大事な結合部をおろそかに見下してしまう。

 編集は情報を足で稼ぐ。人から人へと架け橋渡し、緩くても心許なくても前に前にと歩を踏み出し続け、足元を探る、目を皿にして探す。そして埋もれていた情報を玉羊羹の中身を勢い勇んで取り出すようにぷるんとむき出す。

 デジタルは一見するにアナログなどもう相手にしていないように思われる。
 そう思っているのなら、思い続けているがいい。いずれしっぺ返しが来る、などという烏滸がましいことは口にしない。負け惜しみじみた捨て台詞は死んでも吐かない。大逆転の日を用意周到に推し進め、返り咲いたその時に見返してやるだけだ。

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