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「独学でピアノは弾けない」は今は昔。

 読譜で挫折は今でも健在。だけど、ピアノは弾けるようになる。なんとも便利な世の中になったもんだ。楽譜は読めなくても、見りゃ弾ける時代なんだもの。

 読譜は他国の言語と一緒で、理解なしには意味を咀嚼し切れない。だから、基礎知識なしに臨むのは今でも蛮行といえる。かつて『もしもピアノが弾けたなら』の夢を現実のものとしようと試みたチャレンジャーがことごとく散っていった裏側に潜んでいた障壁は、ピアノの複雑な演奏技術にではない。スポットを浴びるステージに上がる前段階でつまずいていたのだ。挑戦者は楽譜を読み解く難解なパズルを前に、白旗をあげざるを得なかった。

 楽譜の読解は、華やかな演奏シーンの影にたたずみ、控えめに3歩うしろからついてくるからややこしい。なめてかかるとたちまちのうちに牙を剥き出し、容赦なく獲物に襲いかかる。あたかもステルスな捉えにくい野獣は、花魁おいらんで釣る置き屋の阿漕あこぎな商売と重なる。色恋沙汰の餌と決定的に違うのは、人は自らの意志でその危険な蜜壺に飛び込もうとするところにある。

 人は、ピアノが弾きたいのだ。

 でなければ、街ピアノにあれほど多くの耳が傾けられることはない。聴く人の中にはピアノの奏でる楽曲を受け入れながら、内側で情熱の泉が湧出していることに熱っぽい疼きを感じ取っている者がいる。ピアノが弾けなくても、目の前で演奏している素晴らしい無名のピアニストに、未来の自分を重ねるようになる。
 灯った炎の湧出は表皮にまで熱をつたえ、瞳にごうと火を灯す。

 かつて素人ピアニストへの志願兵は、社会の実情を知らないひよっこだった。対岸に見える陸地に向かうのに最短路を選び、渦巻く大潮に呑まれて散った。

 だが今は時代が違う。GoogleMAPが最適なルートで行く道をさし示してくれるのだ。どの鍵盤をどれだけの長さで、強さで弾けばいいのか、和音を含め、指使いまで動画でさし示してくれる。読譜の毒牙はデジタルによってすっかり毒気を取り除かれている。

 ひとつだけ今も昔と変わらない試練がある。それは、小さな一歩を投げ出さず積み重ねていく忍耐力は、デジタルの進歩をもってしても不可欠ということ。ピアノ初心者にとって最初の1曲は、千里の道のりほど遠い。その耐久レースで勝利する必要はない。走り切ればいいだけだ。弾けるようになるかどうかは、たったその小さな1線を越えられるかどうかにかかっている。

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