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気持ちの新陳代謝を促すもの。

家で過ごす時間に映画を、という話をよく耳にする。
「もう観る作品がなくなっちゃった」という強者も。
振り返れば、他人事ではない。「次、何観ようか?」と首をひねっている自分がいる。

観たい映画かどうか判別できずに見過ごしている映画もたくさんあるのだろう。
ならば探せばいい。きっと観たい映画はまだまだたくさん埋もれているはずだ。
そのことは重々承知しているのだけれども。
だけど、時間は無駄にしたくない、と頑なに首を振る自分もいる。

こうした時期だから時間はあり余るほどあるはずなのに、失敗したくない思いが、遠まわりに時間を使おうとする自分を足止めする。肌に染み入った世俗の垢が「反合理的な時間」に罪悪感を注入してしまうためだ。

これだけ長期に渡る自宅時間は、これまで経験したことはない。多くの人が初経験。就業時にたとえると夏休みとか冬休みということになるだろうか。だとすれば、人生最長の社会人休みを体験していることになるのかもしれない。

長期休暇というと楽しくも嬉しいものだけど、こればかりはちっとも楽しくない。嬉しくもない。

前述したように、反合理的な時間を、手放しで喜べないようになっているからだ。
何かが足りない。
では、何が足りないというのだ?

感情は内側でくすぶり、淀み、泥濘化し、ぐちゃりとした粘度を纏い、手ですくうと不気味にまとわりついてきて気持ち悪い。
重く固着化しつつある感情は、堆積するばかりである。

映画を観れば、いっときの解放を得られる。
だけど長続きしない。
だから次の映画に出口を求めるわけだけれども、いつまでたっても本物の出口はやってこない。
映画は出口の代わりにあてがわれた紛らわしの玩具みたいだ。
なぜ?
自分なりに出した答えは、2時間経てば結論がやってくる「先の読める未来」だからだ。
予定調和に、殻を破る力はない。

私たちに今、足りないもの。溜まってしまってどこにも流れ出さなくなった感情を動かすもの。感情の新陳代謝を促すもの。
それは……。

映画『未知との遭遇』は、第三種接近遭遇に次に開く未来の扉を重ねた。
映画は2時間で終わってしまうが、そこから始まる物語があると示唆した。

私たちに今必要なのは、無限に選択肢の枝葉を広げる、結末のわからない未知への扉だ。2時間あれば、まとまるどころか、騒動の種が増えて芽を出しがちゃがちゃでごちゃごちゃに広がっていく、そんな収拾のしようのない、だけどどこに向かうかわからないその可能性に胸を躍らせる接点だ。

『ET』は、ぴっ、とすることで、その扉を開いた。

接点。

私たちは感情の新陳代謝にした栓を抜くために、新たな第三種接近遭遇に向かっている。


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