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「辛かったら、辞めてもいいんだよ。たけど生活があるだろ?」と前の上司は言ってくれた。失業保険の給付額はたかが知れている。それだけで足りるくらいまで、私は生活を切り詰めることができなかった。たしかにクオリティのダウンサイジングはひとつの選択肢だったけど、いったんレベルを落としてしまうと、望んでいた高みがどんどん遠のいていくようで、それだけは避けたかった。

 最低でも現状維持。それが私が張れる現時点で精一杯の意地だった。雀の涙でも貯金は多少はある。先のことに不安を膨らませるのは簡単だけれど、萎みゆく私に効果は現れなかった。今すぐ、逃れたかった。逃れられるなら、備蓄を食いつぶしてもかまわないとさえ考えていた。蓄えが尽きるまで、元気を取り戻せばいいだけの話なのだから。

「会社は、人生を捧げるものじゃない」前の上司の最後の忠告に背中を押されて、私は前職から身を引いた。もうあれ以上、続けられなかった。行ってきますと家族に告げて出社しようとする家のドアを開けられなくなったのだ。かろうじて家を発っても、バス停までの5分の道のりを歩ききれず、へたってしまう。やっとのことでバスに乗れたとて、JRへの乗り換えの階段でうずくまってしまうのだった。
 私は心を病んでしまっていたのだ。

「人生長いんだから、英気を養うのに大人の夏休みを取りなさい」心療内科のお医者さんはそう言って、「元に戻るまで好きなことだけをして過ごすように」と処方してくれた。

 近場にドライブを日課にした。晩酌を楽しむようにした。美味しいものに時間と労力とちょっぴり贅沢なお金をかけてみた。アクティブなアトラクションできゃーきゃー騒いでもみた。コンビニ帰りにホンダに寄って「これ、ひとつ」ハンターカブを衝動買いした。バイクに乗るのに中型二輪免許取得を命に出戻り教習所がよいも始めた。

 適応障害は、ストレスの元凶を排除することで徐々になりを潜めていく。少なくとも8割がたを押さえ込んでしまえば、社会復帰しても差し支えなくなる。それでも出社拒絶症候群のタネを2割も残すことに私は怖さを感じていた。ちょっとしたきっかけで、再発してしまうのではないかという恐怖が、立ち込める霧のように心の奥底でたゆたい消えることはなかった。

 通帳の目盛りが、適応障害との戦いでパワーを著しく損ない、いよいよゲームオーバーを迎えようとしていた時、私は不死鳥のように蘇ることになる。

 どうなったのかって?
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