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初恋は深窓に閉じ込められている。

 そこはちょっと不思議な街だった。西岸良平さん(漫画『三丁目の夕日』で有名な方)の描く世界に砂鉄を撒いて、下から磁力で重力を歪めたみたいに磁場がぐにゅぐにゅ蠢いて。
 そこは記憶の世界。
 記憶への旅。
 思い出はひとつひとつが独立していて、それぞれの小部屋に収まっていると思ってた。でもそんなことはなくて、ある記憶は殻を破って大きくなっていたし、いくつかの記憶はミキサーにかけたみたいに砕かれ混ざって溶け合って、美味しくなっていた。苦いのもあった。

 ユングだったら、それは至極自然なこと、と諭してくれただろうか。記憶の窓のいちばん深いしまわれた箱の中に、囚われの姫がいる。親に手を引かれるのが側から見て違和のない年齢の女の子。
 その子に付かず離れずの距離で、断片的だけど、ちぎれた記憶のピースがひらひらと舞っている。まるで探し物を花に求める蝶のように。
 ひらひら舞うピースに人差し指を差し出せば、宙空に港でも見つけたようにとまる。羽を大きく上下に揺らし、束の間のひと休みを噛み締めているようだ。だけど、長く留まっていてはくれない。先は急がずとも、過ぎゆく時間は少しも無駄にはできないと無言のうちに語りかけてくるように。
 記憶のピースには、その子の静止画が映し出されていた。小さな手足で弾くピアノ姿もあれば、赤いランドセルを背負ってぴたぴた歩く一コマを切り出した姿もある。振り向き驚き両手で口を覆う1枚もあった。ひらひら舞う羽根のない蝶は、このようにして記憶に残る数少ない光景をひととおり見せていったのだった。

 男の子にも女の子にも、忘れられない女の子がいる、ふとよみがえる男の子がいる。
 記憶の奥の突き当たり、いっさいの出入りを拒む扉を持たない建物に、その人はいる。その建造物の窓は、どれもが開閉機能をもたない閉ざされたままの窓だ。その開かない窓のひとつに、彼女がいる。窓ガラスに手をあてて、外界を傍観している。その表情には羨望もなければ諦観もない。窓のガラスに手をあてて外の世界をうかがうことをしにこの世に生を受けたみたいにして、ただただ外の世界を眺めている。

 じっとこの手を見つめたら、彼女に手を差し伸べたくなってきた。でも、所詮は叶わぬ願い。あの時にできなかったことが、しなかった過去を無かったことにして、新たな史実は紡げない。録画したドラマを巻き戻すようにはいかない。巻き戻すことができたとしても、記録されたドラマを書き換えることはできない。

 きっと誰の心の内にもある。初恋の人の、あの時に切り取った当時のままの姿が。
 初恋はそうやって、出会った瞬間から記憶が途絶えるまで、心の内の深窓に加齢することなく閉じ込められている。

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