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言葉はいらないと思うこの頃だけれど、そんな幸せをあえて言葉にしてみます

ここ数日、全然noteを書く気になりませんでした。
以前は書きたいことだらけ。あれも書きたい、これも書きたい。どうにかして私の頭の中を1文字でも多くこの世に送り出すんだ!そんな気持ちでいました。

それは誰かに自分のことを分かってもらいたい。そんな気持ちの表れだったと思います。もっと深くすると私が苦しいのはこの世の中のせいなんだー!くらいの綺麗ではない、澱んだ物を存分に含んだ、暗いくらいものだったと思うんです。

そんな気持ちが萎んでゆくんです。最初はどんどん膨らんでいたパンパンの風船のような気持ちも、日が経つにつれて少しずつ萎んでいくように。あれだけ主張していたものも最後にはくしゃくしゃの、もう浮かなくなっておもちゃ箱の隅に追いやられた風船のように、持っていたけれど今はどうでもいいか〜の物になっていました。


なんかね、そう思えてきたのは単純に私が幸せいっぱいだから。
何を変えたわけでもなく、変わらない日常なんですけどね。それでもその日常がとても愛おしくて、癒されて、しみじみと幸せを感じるようになったんですよね。

朝起きて隣に寝ている子どもの寝顔、カーテンの下から差し込む光、しんとしたリビングに乾いた洗濯物、お湯が沸くしゅんしゅんの音、窓から入るひんやりした風、パンのふわりとバター香る匂い、コーヒーの香り、動けば片付いてゆくお家、子ども達のおはよう、お日様のお家全体を包む明るさ、などなど。
そんなわが家では当たり前の全てに幸せを感じるようになりました。

小さな幸せは私をだんだんと笑顔に。そして子ども達を、夫さんを包んで、家族みんなが笑顔になっていきました。

美味しいものはどんどん美味しく。
綺麗なものはどんどん綺麗に。
元気な声はどんどん元気に。

そうなっていくうちに私が大声で叫びたかった言葉達は声をなくしていったんです。

あるのはただ幸せだな〜の気持ちと、私と家族の笑顔。
でもこれがあれば他には何もいらないんですよね。
もう訴えることもなくなっちゃいました。
本当に幸せな人は表舞台に出てこない。ひっそりと暮らして、その幸せを噛み締めているから言葉にすることもないんだ。
そんなことを最近は強く思うようにもなりました。


不満はすぐに言葉として出てきます。
簡単に暗く重く、そして延々と辛い気持ちは感染して、広がって、果てしなく深い溝のようになっていきます。

でもその溝は実はひょいと超えられるくらい狭い場所なのかも。超えた先には暖かく柔らかな、色とりどりの花が咲く明るい場所が待っているかもしれません。
暗い場所ばかり、その溝に落ちているときは見えないものです。
でも考え方を少し変えるだけでそこにも小さな花が咲くかも、眩しい光が届くかもしれません。
明るくなってみたら、実はとても快適で居心地がよい場所だった。そんなこともあるかもしれません。


幸せは見え方なんだなと今は思います。
隣の芝ばかり見ず、自分の芝生をせっせとお手入れすること。
そうすれば自分の芝が実はとてもきらめていていて素敵なものに気づくはずです。
私はこれからもこの素敵な景色を眺めながら、またせっせと自分の芝を大事にしていこうと思います。
幸せなこともちゃんと言葉にできたら嬉しいな。

子どもにお小遣いをあげる気持ちで♡