まぶたの裏の桜。

 すこしずつ、どうしても記憶はうすくなっていくから、どうしても忘れたくないことを書きとめる。いつか誰かに、そして未来の自分に届くといいと思う。

 また、桜をいっしょに見たいと思った人がいた。朝と昼の間くらいの時間にその人と歩いていたら、通りすがりの学校の校庭に、桜が咲いていた。わたしは写真を撮ることに夢中で、肝心の桜そのものの記憶があまりないのだった。立ち止まって、じっくりと桜を見ればよかった。だからもう一度、その人と桜をいっしょに見たいと思った。もっとゆっくりと。
 後日、それから間もない日に、今度は夜に会うことになった。公園のベンチで缶チューハイを飲みながら、ものをつくることについて語り合った。

 なんでかは忘れたけど、わたしはこんなことを話した。

 「仕事には、デビューボーナスがあると思っている。例えばわたしがフォトグラファーとして独立したとき、乙女グラフィーをはじめたとき。みんな気にかけてくれて、仕事をくれる。応援してくれる。それで勢いのある新進気鋭の新人だと思われて、また新しい仕事が舞い込んでくる。周りの女の子も頑張りどきで、みんなで協力して上を目指していく。いわゆるピーク。絶頂に輝いているとき。でも、しばらくすると、それもどんどん減ってきて、成果を残して初めて次の仕事が来るようになる。お世話になった人は会社を辞めたり、結婚したりして、持っていた仕事がなくなっていく。できて当たり前だと思われていく。たぶん、わたしは(あなたも)いまそのときなんだと思う。だけど、ピークの二回目を作れる人は本物だと思う。すごく大変でしんどいけれど、わたしたちは常にそれを目指していかなくちゃならない」

 その人はしみじみと、こう語った。

 「そこに行くには、作るものに対していつも誠実でなければならないってことだよね」

 そう言われて、すこし驚いた。わたしの言ったことをすぐに理解してくれたことにも驚いたし、反射のように口から出た答えがとても素敵で、素敵すぎて、わたしはこの人のことがやっぱり好きだなぁと思ったのだった。
 公園のベンチから、すこしだけ夜桜が覗いて見えた。今度は、もっと見たいと思わなかった。写真を撮りたいとも思わなかった。すこししか見えなかった桜の枝の先を、鮮明に覚えている。思い出すと泣けてくるくらいに、鮮明に。街灯も当たらず、濁った薄い桃色。それでも、すごく愛しく思えた。  
 フォトグラファーなのに、このとき、あぁ写真を撮らなくてよかった、と思ったのだ。

 別の日に、こんな話もした。
 わたしは、ものを作るときに(特に乙女グラフィーで写真集を作ったり、ステートメントを考えるときに)マイナスな感情からなにかを生み出すことが多い。自分の心に向き合って、正直に表現しようとすると、心の闇の部分に取り憑かれたようになってしまって、心底疲弊してしまう。いままでものを作ろうと思ったときに、プレッシャーにやられたり、パニックになったり、自信がなくなって不安になってしまい、大切な人に大声で理不尽に当たってしまったりした。

 「なにかを作るときにマイナスの感情から生み出すから、精神を病んでしまってつらい。自分の黒い心にとらわれて、体が重くなって一日中起きれなかったりする。でも、それが必要だし、わたしはそうやってものを作ってる」

 そう言うと、その人はすこし不思議そうな顔をして、こう答えた。

「自分の場合は、なにかを作るときに、プラスとかマイナスとか考えたことないけどね。ずっと平常心で作ってる。考え続けた人には『ご褒美』があると思っていて。電車の中とか、帰り道歩いているときとか、ふっと降ってくる。なにかを作ろうとしたときに、全然アイディアが浮かばなくてくるしいこともある。でも考え続けていないとその『ご褒美』は手に入らないんだよね。だからきっと気分が落ち込んでいるときにしか作れないんじゃなくて、たまたま心がマイナスのときに、ハルカちゃんにも『ご褒美』が降ってきたんだよ」

 すごく素敵な考えだなぁと思って、なんだか、また泣きそうになってしまった。ぐちぐちと、つらい、くるしい、と言いながら写真を撮っている自分が許されたような気さえした。人を喜ばせよう、人を幸せにしようとしている人は本当に輝いているなあ。わたしも、そうなりたいなと思ったのだった。この日のこともあの日のことも、わたしのなかで糧になっていて、なにかを作るとき、写真を撮るときにずっと励まされている。

 ゼロから自分でいろいろなものを生み出して作ること。それがどんなに難しいことか。どんなに苦しいことか。わたしたちはきっと、いま、これからもずっと、そういうところにいるんだと思う。

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