発作的な孤独と、The 1975のMatty。

 今日、「乙女グラフィー」の写真集の打ち合わせに行ってきた。
 夏休み期間、お盆もあったり体調を崩していたこともあって、ほとんど進展がなかった写真集だけど、ここにきて一気に話が進んで、締め切りも予算もぜんぶ、現実的になってきた。

 「乙女グラフィー」の写真集を作るにあたって必要になってくるのがステートメントであり、ステートメントを書くにあたって必要になってくるのが文章を書くことであり、文章を書くということは自分の心と向き合うことであり、それは老いていく自分の寂しさだったり、悲しさだったり、そういうことを考える時間を増やさないといけないということである。
 これが正直ものすごくしんどい時間で、2015年に台湾フォトに出展する際に一度ステートメントを書く作業があったのだけれど、しんどすぎて鬱のような状態になってずっと寝っ転がっていたり、支えてくれた人にさえ当たり散らかした記憶がある。「乙女グラフィー」がうまれるときもそうだった。とにかく精神が安定しなくて、ただ大切な人を日々傷つけた。今日だって、ステートメントを考えていたら、ブラックアウトみたいに視界が消えていって、自分で驚いた。わたしはなにかトラウマを抱えているのかな。若い女の子のことを考えたり、自分が老けていくことを深く考えようとすると、いつも黒い霧のような、糸のような、モヤモヤぐちゃぐちゃしたものが思考を邪魔して先に進めない。
 でも進めるしかないのである。作ると決めたんだから、どうしたってその感情を言語化しないと進めない。

 あのサマソニのステージを見てから、ずっとThe 1975のボーカル・Mattyのことが気になっている。毎日The 1975を聴いているし、恋したように思い返している。Mattyはずっと寂しさをまとっているように見えた。Mattyがステージに立って、歌ったり、踊ったり、日本酒を飲んだり、叫んだりしているときにも、寂しくて寂しくて仕方なかったとしたら、どうしよう。と思った。
 だってわたしは、電車に乗っていても、お風呂に入っていても、誰かと話していても、隣で眠る人の顔を見ているときですら、いつだってふとした瞬間に、足元がすとんと抜けて奈落に落ちていってしまいそうな孤独を感じる。なにものかに肩をつかまれて、くらいところに引きずりこまれてしまいそうな、どうしようもない恐怖。ああ、叫んで、泣いて、お酒を飲んで、誰かとハグして、そんな感情は忘れてしまいたい、不感症になりたい、そんな気持ちと戦いながら、大体はなんでもない顔をして、猫を撫で、仕事をこなしている。
 Mattyに、そんな恐怖が、あのサマソニのステージ上で発作のように起こったら。孤独に支配されて、それに抗うように叫んで、お酒を飲んでいたのだとしたら。どうしよう、と思った。何万人のお客さんの前でも、たくさんのスタッフに囲まれていても、自分が歌っているときですら、どうしようもない恐怖が襲ってくるのかもしれない。そういう意味では、Mattyはわたしと同じだし、Mattyはみんなと同じなのだ。それがわかるから、世界は彼を愛すんだろうな、と思う。

 本当は今まではこういうことは表に出してきたことはないのだけれど、乙女グラフィーの写真集を作るにあたって、わたしの心の動きも書いておいた方がきっともっとみんなに愛してもらえるんじゃないかなと思うから、少しずつここに残していきます。これと別に、何年もこんなことを書いている日記があるんだけれど、それも出版のときに形にできたらいいな。
 みんなはどう?乙女グラフィーの写真集が出版されるタイミングでさ、少人数で、自分の心を語れるような場所も作っていきたいなってぼんやりと思ってるよ。

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