「若さ」は相対的か?

 一年前、「乙女グラフィー」の取材を受けたときに気づいたことがある。

 「乙女グラフィー」をはじめたときのわたしの年齢は27歳。わたしが「かわいくて、若い」と思う女の子に声をかけているこのシリーズでは、連載当初、出演してくれる女の子の年齢は20代前半が多かった。大学生だったり、就職したての子だったり、第一回目に出てくれた女の子はまだ10代で高校生だった。
 自分のなかから失われた「若さ」の正体を知りたい、若い女の子に対する羨望や嫉妬から解放されたい、という気持ちが根底にあるこの「乙女グラフィー」というシリーズにおいて、自分より若く、その若さの強みを享受する絶頂期にいる女の子に声をかけて撮影するということは、テーマを考えたときの絶対条件であった。

 それが35歳になって改めて振り返ってみると、最近「かわいくて、若い」と思う女の子の年齢が引き上がっていることに気づく。だいたい27〜28歳、ときには30歳をこえている子も撮影している。
 これは狙ってやっているわけではなく、すごく無意識的なことだった。わたし自身が「かわいい」「若い」とうらやましく感じる女の子は、大体自分の年齢から5〜8歳くらい年下の女の子であって、それより年下になるとどこか「未知の生物」に接しているような気分になる。正直、「乙女グラフィー」をはじめた当初に撮影していたような10代の子や大学生の子にいま対峙してみると、同じ女性としての羨ましさというよりは、どこか別の次元で生きているワカモノだなぁと思ってしまうのだ。

 これは自分のなかで大きな発見だった。これからもずっと「乙女グラフィー」を続けていくと、もしかすると若くてかわいいと感じる女の子の年齢がどんどんどんどん引き上がっていくのではないか。10年後、わたしが45歳になったとき、羨ましく思う女の子は30代中盤の子かもしれない。そう考えたとき、めちゃくちゃおもしろいなこのシリーズ。と自分で思ってしまった(完全な自画自賛である)。
 若さというのは絶対的な意味もあるけれども、自分自身の目線に立ったときに、すごく相対的な側面がつよいんだということに気づいたのだ。年齢に限らないのだけど、「自分がもともと持っていて、手放してしまったもの」に対する執着がわたしは人一倍つよい気がしていて、もしかすると同じことなのかもしれない。すこし前に手放してしまったくらいの年齢を羨ましがるということ。これはなんだか死生観にもつながりそうな感覚だ。

 「乙女グラフィー」をはじめてみてわたしが興味があったことは、もうすこし先の、60代、70代になったときに、わたしはどんな思いで、どんな場所で、どんなふうに女の子を撮影しているんだろうということで、またさらに上の80代、90代になったときも「乙女グラフィー」を続けていて、いろんなニュースサイトに載りたいし、いろんな場所で展示したいし、死ぬ間際にはじめて写真集を出すんだ!という気持ちだった(それがはじめて4年で最初の写真集を出すことになるなんて思ってもみなかった)。
 こうしていま、この年齢でまた新しいことを発見できるなんて最高のシリーズだな。一生をかけて、続けていくつもり。

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