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無名の広告クリエイターが創造と向き合うための9つの習慣(2022年の抱負)

2021年の暮れ。OB訪問してもらった広告クリエイターを志す学生から「クリエイティビティを磨くにはどうしたらいいですか?」と聞かれて、ぼくと先輩で答えが割れた。

ぼく「好きなものを分析して法則化して、自分の企画に応用してるよ」(ドヤッ!?)

先輩「本気で作った経験が全てだから、表現の量をとにかく増やしてる」(キラーン!!)

もともと「創作論」や「クリエイティビティ」は自分の中でかなり大きなテーマだけど、先輩の答えにハッとさせられた部分があったので行き着く先もわからないままnoteを書き始めた。
冒頭の質問への回答だけでも、クリエイターの思考のクセがわかるのが面白い。それに自分だってまだ何も成し遂げてない若手なので、磨くための方法があるんだったら知りたい。

思考を整理しながら書いていたらすごく個人的な長文になってしまって人様が読みやすい文章じゃないし、自分のかっこわるい葛藤を赤裸々に書き連ねているのであまり公開したくないけど、自分の尻に火を付ける意味でも記事の形にしないと意味がないと思ったから、バランスをとって一部を除いて公開にさせていただきます。

だから、以下に続く見出しタイトルはどれも自分の2022年の抱負にしたいと思うし、来年見返した時に成長を実感できる自分でいられるようにしたい。何者でもない自分が書いているので、秘訣やTipsみたいなものではなく、あくまで誓いのようなものです。
入社時に言われたけど広告における「クリエイティブ」という肩書き自体には何も意味がないので、本当に創作と向き合うために考える機会にしたい。そして未来が過去を決めるので、いつか読み返したり公開したりして価値のあるものになるように頑張りたい。


①1枚絵発想:言葉と絵の表現と向き合う

1枚絵とは「コピーとアート」つまり、言葉と絵から成る1枚の企画のこと。自分は根っこが理系だから、業務でも自主制作でも、デジタル・インタラクティブ周辺の体験やプロダクトをつくるという「クラフト」のアウトプットが多くて、言葉や映像の表現と純粋に向き合う機会が意外とそれほど多くないということもあるけれど、大きな賞をとった同期が「新しい領域のアウトプットも最終的には映像と言葉、一枚絵をつくるアートとコピーの"表現力"だと思う。"構造"も大事だけど、自分より面白い具体案を出してくる人のディレクションじゃないと信頼できない」って言ってたのが刺さって、努力のバランスを改めないとと改心したのだった。

では、ここにおける表現と構造とはなんだろう。例えば、冒頭の質問に対する前者の回答「好きなものを分析して企画に応用する」はつまり、「インプットの質を上げて(=自分の好きなものに対して敏感になって)、アウトプットに使えるフォーマットを作る」ということ。勉強をして「型」を身につけることで、効率的に再現可能な形で、頭脳的・論理的にアイデアを作るという方法。
デコン(Deconstruction:再構築)とかヨコ展開とか言われたりするもので、自分も好きな企画とか映画とかのどこが良かったのかを分解&言語化して法則化していたりする。クリエイターオブザイヤーの眞鍋さんが公開してくれていたりする。

これは「構造派」と呼ばれる人たちの習慣で、大きな土台の枠組み(コアアイデアやPRバリューやメディア戦略)を俯瞰して考えるのが得意な人がよくやっている印象(もちろんコピーやCMを体系化している人もいる)。映画とか漫才をみたあとに、どういう面白い展開・テーマがあったのかを言語化できる人が多く、どちらかといえばWhat to sayを大切にしていると思う。
問題点は、法則化という手段が目的化してしまうとアウトプットに生きない機会も多く、前例に囚われすぎると頭でっかちで動きづらくなること。あるいは、一見すると大きな変化や思想を掲げた面白いアイデアに見えるけど、具体物になったときに実はリファレンスからのジャンプが小さくてドキドキしなかったり、やってみると実は実現するのが難しかったりすること。
企画力とは、引き出しの多さ。でも引き出しを増やすだけではなく整理するのが大事。実務の企画に取り入れて世の中の反応を見たり良し悪しの体感を言語化することを習慣にしてね」と尊敬する先輩が言っていた。プランナーの花田さんも「若手は研究が大事!」と言っている。

一方、後者の先輩の回答「表現の量をとにかく増やす」は、「アウトプットの経験をインプットとして、言語化できない経験則を溜めてアップデートする」ということ。「アウトプットはゴールではなくスタート」とか「PDCAではなくDCAPの時代」と言われるように、あんまり深く考えず身体的にとりあえずやってみて試す量を増やして、体感として自分の哲学を見出すという方法。

さっきの「構造派」の意見と対照的だけど、「手を動かすことほど体力がいるから、若いうちにやっておけ!」という主張にもすごく納得がいく。

これが「表現派」と呼ばれる人たちで、具体的な細部に没頭して考えるのが得意な人に多い考え方。(表現といっても、「コピーやコンテ・企画書を書く」という企画レベルの表現と、「映像やプロダクトのモックを作る(=手を動かす)」という制作レベルの表現があるけど、そこは一旦置いておいて後ほど詳しく書きます。)「表現派」には、映画や漫才をみたあとに、あの表情・シーンがよかったとか言語化できない要素に触れる人が多く、どちらかといえばHow to sayを大事にしていると思う。
問題点は、土台の戦略が固まっていないまま具体の話ばかりが進むと、振り返ったときに一言で聞いて面白いコアアイデアに欠ける場合もあるというくらいだろうか。島田紳介さんが「努力に逃げるな!」(戦略を立てろ!)と言っていたのが印象的だけど、表現派でも先輩のように活躍されてる方々は表現の理由をシンプルに説明してくれる。
鍛え方に関しては、とある大御所クリエイターは「感動をストックして企画にする」と言っていた。とある売れっ子ドラマPも、「コンテンツのKPIは人の記憶にとどまること。記憶に残るのはセリフやシーンなどの"点"で、ストーリーの"線"は忘れ去られる」と言っていた。構造派の自分は「企画するときに、線のことばかり考えていたのではないか?」と気づいた。

結局、両方大事!!ってことでしかないのだけれど、特に自分にあてはめて考えたときに少し前者の「構造派」に寄りすぎているような気がしたのが、OB訪問でハッとしたときの心理だ。インプットをたくさんして体系化を試みたはいいものの「意外と実制作に生きていないものが多いな〜」とか、CMの打ち合わせで「展開は面白いけどセリフがただの説明だよね〜」って言われたりとか、コンペでも「方向性は決まったけど突き抜けるジャンプがなくてアイデアが決まらないぞ…」ってなったりする。
映画の感想も必ずストックしているけど、書きっぱなしになっていて見返して体系化したりできていないし、撮りたいショットも集めて"撮りたい"ままで眠っている。「好き」というSAYはどこまでいっても"客観"でしかなくて、それがDOになって初めて"主観"の個性へと変わるのではないかと反省している。

余談だけど、結果を残す作品にはどれにも「その人らしさ」が出ている。これを「急に売れたように見える人は、急に売れているわけではない」と言い換えた人もいた。評価された同期の作品には、長い付き合いになる自分からみてもすごく"らしさ"が溢れていて、"実感のこもった"自分だけの好みの表現を追求してきた蓄積を感じた。自分のポートフォリオに入れても恥ずかしくないくらいに創り抜いた"作品"を、常に提案・応募しているのだろうだと感銘を受けたし、むしろ自分らしいオリジナリティを追求することが勝ち筋だと感じてすごく刺激を受けた。
このツイートも似たようなことを言っていて好き。

話を戻すと、一流のコピーライターやデザイナーは、言葉や絵自体が既に企画として成立している(『THE FIRST TAKE』もそう)。企画の仕事を始める前はコピーライターって「何かに名前をつける人」くらいに思ってたけど、実際は「これから作る全ての土台となる言葉を作る人」だということがわかった。『スマブラ』の仮タイトル「4人同時対戦可能ダメージ排除型バトルロイヤル格闘」はもう企画が完成しているし、映画『エイリアン』の企画書も「宇宙版『JAWS』」だけだったという逸話を聞いた。
『岡康道展』でも、演出を担当した中島監督が追悼文で「彼の書いた歌詞に、ぼくがメロディをつけていたような」という役割の説明があったけど、「CMプランナーも結局はコピーライターで、コアアイデアを言語化する仕事なんだなぁ」と思った。だから今年は自分も、曖昧な「企画」や「構造」とか、理系・美大的な「クラフト」に逃げずに、自分らしい&質の高い言葉と映像をたくさん生み出すことともっと真剣に向き合いたい

元々、広告にすごく憧れてクリエイターを目指したタイプではなかったけど、CMプランナー多田琢さんの「1コのところでちゃんとできないやつは、他に行ってもダメなんじゃないか」は絶対的に正しいと思って、まずはアート&コピーに骨を埋めるつもりでやりたい。
活躍する方法は広がったけど、その土台にある"広告クリエイター"の力から逃げてはいけない。最近は、企画も前段から順番に考えたりするようになっていたけど、"クリエイター"の誇りを持って、世の中に出るアイデアそのものを自分の中のキングにしていきたい。

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