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与一と羊の100歳体操

 公民館で行われた99歳体操は終焉まじかだった。老人会の爺婆がテレビを観ながら体操をするなか、88歳の与一は、なぜ100歳体操ではないのかを真剣に考えていた。
 となりのトメ子はそんな与一に恋をしている。
真剣に考える与一が大好きなトメ子は、自分が認知症であることを知らない。ちなみに、与一も認知症だ。

「ねぇ、よっちゃん。さっきからなにを考えているの」

「羊飼いはなぜ99匹の羊を残していったのか考えているんだ。1匹の羊のために」

「あなたは88歳でしょう。12匹の羊を探しに行くなんて言わないでよ?そんなことしたら、すぐに捜索願いがだされるわ。絶対にダメ」

「でも、99歳体操が終わるとこの世界も終わってしまう気がしてな」

「残りの1匹は悪魔にまかせちゃえばいいのよ。でも、12匹はさすがの悪魔でもきっとお手上げよ。そのうち1匹くらいはほんとうの人間になるわ。つまり88歳のよっちゃん、あなたこそほんとうの・・・あぶっあぶっあっあっあぶぶぶぶぶぅ」

そう言うとトメ子は泡を吹いて倒れてしまった。

 77年製のブラウン管テレビに映し出されていた44歳の理学療法士はメタボリックなお腹をさすりながらニヤニヤと笑っていた。そのお腹の中には10匹の羊たちがいた。与一はパンパンに膨れ上がった理学療法士のお腹が蠢いているのを見逃さなかったが、騒ついている公民館と近づいてくるサイレンの音で空襲が来たと思い込み、我先にその場から逃げ出した。

 救急車が公民館の前で停止し担架が運び込まれる。運び出されたトメ子はうわごとで「羊飼いよ、よっちゃん、羊飼いが・・・」と救急隊員の手を握りしめながら囁くと、絶命した。

 一連の騒ぎのおかげで与一は99歳体操の終焉を見ずに済んだわけだが、硬くなった身体のせいで、今日もまた一歩、死に近づいてしまった。

 66歳のトメ子は物事を真剣に考えることができない性格だった。与一は認知症でも真剣に考えることができたのに、なぜトメ子にはできなかったのだろう。そして、真剣ではなかったトメ子が、ほんとうの人間について知っていたのはなぜだろう。そんな噂がたちまち老人会界隈でひろがった。

与一はそれから体操に行かなくなった。
トメ子が言っていた言葉の意味がわからなかったし、与一は88歳だった。

 与一がシルバーカーを押して年金の受給に向かった日、偶数月の15日、それはトメ子の49日。
 孫の嫁33歳から「私が行きますから、家でゆっくりしていてください」と言われたが、与一は88歳で認知症だから孫嫁の言っている言葉の意味がわからないふりをした。玄関を出て、子供のころから毎日あいさつをしている55cmの道祖神に声をかけて、ヨチヨチ銀行へ向かう。
 トメ子の家では法要が行われていた。与一はトメ子のことをきれいに忘れていたからトメ子の家のまえを通っても、なにも思い出さなかった。銀行に向かいながら考えていたのは1匹の羊のこと。

 トメ子のことをきれいに忘れてしまっていた与一だが、1匹の羊については考えずにいられなかった。
 どうしていつも1匹だけいなくなってしまうのだろう。99歳体操も、あと1匹が必要だった。与一の羊は12匹のうち10匹は戻ってこないと確信していた。44歳の理学療法士の手中に落ちた10匹、そして1匹ぐらいはほんとうの人間になると誰かが言っていたような気がする。つまり人間になれなかった羊が1匹どこかにいるはずなのだ。その行方が気になりつつも、与一はこれから貰う年金を楽しみに銀行へ向かう。

 銀行が見えてきたがまだ開店していないようだった。扉の前にはすでに先客がいてその時を待っている。先客に近づくとあることに与一は気付いた。大きな男は片手にリードを持っていて、繋がれていたのは山羊だった。山羊⁉︎

 そう、羊ではなく山羊だった。皆さんもご存知のとおり山羊は悪魔の化身である。与一は猛烈に嫌な予感がした。アプリオリとアプステリオリの違いがまったくわからない大学生のように、羊と山羊の見分けが付かなくなった。

「わかるよな?」

「わかるよな?」

 与一の頭の中で誰かが囁いている。与一は必死に考えた。与一は88歳、100歳体操ではなく99歳体操だったのは逃げだした1匹を捕まえに行った羊飼いのせいで、88歳の与一から逃げ出した羊は12匹で、10匹は77年製のブラウン管テレビに映る44歳の理学療法士に食べられてしまった。66歳のトメ子が倒れたとき、彼奴のお腹が蠢いていた。つまり2匹はまだどこかにいるはずで、うち1匹は・・・あの男、そして男が連れている山羊こそが・・・んなっっ!ボンッ

 次の瞬間、与一の頭は爆発してしまった。88歳の脳は溢れだす数字により過負荷状態が続いていたのだ。そもそも与一は小学校さえまともに通っていない。毎日、毎日、畑仕事に駆り出され、育ち盛りの少年に昼飯は与えられず、世界のすべてに隷属することが彼の青春だった。数字が必要のない人生に贈られた最後の計算問題に与一は負けた。肝心な羊についてはわからずじまい。

あぁ、可哀想な与一

人生の惨敗

彼に限らず計算問題に負けて
自ら首を括る人は多いのだ

悔しい

羊のせいだ

美しく爆ぜ散った与一の脳みそ。
大男は与一の脳みそをペロペロと舐めていた山羊に「お別れを言いなさい」というと胸ポケットからハンケチを取り出し、鼻をかんで、与一の無くなった頭部に添えた。それから与一のシルバーカーに吊るされていた巾着を取り、黒い山高帽の位置を細い指で確認すると、山羊を引き連れて銀行の中に入って行った。

「あら、今日もおでましね」

「えぇ、この山羊、お札が大好物でして」

「立派な黒山羊さんだものね」

「メェー」

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