火地風水を完結する

火地風水。火で起こり、地で形になり、風で広まり、水で流れる。今如何程なのか。薄っすらと見えているブループリントは地(物質、所有、重力)から風(情報、共有、量子)への攻略法である。もう一要素ありそうである。それが水。感情で腑に落ちる段階。心。人間臭いので苦手である。人が嫌い。なぜだろう。大切な人はいる。愛せない人もいる。嬉しい、悲しい、淋しい、全てを愛したい、虚しい、悔しい、感じ切ることが必要。最後に残るのはやはり「条件付きの愛」である。なかなかこれがこびり付いて離れない。善であれば愛してよい、悪であれば愛してはいけない。極論を言えば、殺人を犯した者も愛するのか。愛する家族や恋人の命を奪った人物を愛せるか。 

愛するの意味を遠視眼的な視点で切り取った時、殺人が起こったのは恩寵(因縁、他力、必然)であるとも思えてしまう。ここに感情の問題が出てくる。近視眼的な視点。この現実世界、重力の影響を受ける感情。憎しみ悲しみ、無力さ、想像を絶する痛み。感じ切ることしか対応する術がない。既存の言葉で切り取ることなく、何度も慎重に掬い取って。改めて愛するとは何か。人を愛するという表現はもしかすると間違っているのかもしれない。悪と同じで、善を愛して人を愛さず、が本来の姿ではないか。私が冷酷なだけかもしれないがしっくり来る。人は自力で何事もなしているのではない。善も恩寵に類することである。

今一番悲しく思っていることは、この世界のこと愛のことを考えることは一円のお金にもならないということ。当たり前だけど、大切なことなのに、どうしてだろうと思ってしまう。残念ながらというべきか、私にも大切な人にもお金は必要なのだ。そして私と大切な人を繋ぐ愛は、永続する保証がない。愛をその時毎に誓うことしかできない。別れの可能性は常に身近にある。音楽が慰めを与えてくれるが、心に吹いている風は冷たく厳しい。私はどうやって大切な人を愛していけばいいのか。

感情は、人から生まれるのではなく、彼方からやってくるもの。愛も嫉妬も惰性も憎しみも怒りも喜びも悲しみも恐怖も、心の動きは全て。彼方からやってくる所有も他力により成り立っている。所有するか否かというのも、生まれながらの身分や加害者になるか被害者になるか、というのと同じように選択出来ない。

結局のところ自分の中に自然に湧き起こってくる他者を愛したいと思う気持ちも、疎ましいと思う気持ちも塞き止めることなくあるがままに感じ切る。コントロールなど初めからできないのだから。愛そうとしたり憎もうとしたりすれば誤った方向へ行くのだろう。相手に対してできるささやかなことは彼方から湧き起こった愛や感謝の気持ちをそのまま素直に伝えること。その準備を常にしていること。それが愛を形にすること、プレゼントというものかもしれない。

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