準備不足

仕事の事前準備の大切さを表す言葉に「段取り八分、仕事2分」という格言がある。事前の段取りが完璧なら、仕事の8割方は終わっているという意味だ。

仕事に取りかかる前に、仕事を進める手順をきっちりと決め、必要な準備をしておけば、それだけ仕事の質とスピードは上がる。

病院で働いていた頃、朝の検温の途中に、何度もナースステーションに戻って来る新人がいた。検温は一向に進まない。お昼の休憩時間はとっくに過ぎた。「いつまでたっても詰め所に戻って来ない」と、新人の指導係がやきもきしていたのを思い出す。

新人がベテランの看護師よりも部屋周りに時間がかかるのは、一つ一つの看護技術の未熟さだけではない。おそらく、段取り力の差によるところが大きいだろう。

仕事の事前準備の大切さは強調しても、強調しすぎることはない。とくに病院の外で働く訪問看護においては。病院とは違って、訪問先で忘れ物に気づいても、「あっ、忘れた!」と気軽に取りに行くことが許されない。ステーションから30分近く離れている家もある。次の訪問が控えている場合は、準備不足は命取りになりかねない。

訪問看護でとくに用意周到さが求められるのは、医療依存度の高い利用者が退院する時だ。点滴をしたり、バルーンカテーテルを交換したり、喀痰吸引をしたり、ドレッシング材を交換したり、家に帰っても医療ケアは続く。入院中の医療を退院後も切れ目なく提供するためには、様々な医療器具や衛生材料が必要になる。それらの物品が自宅にあるのか、なければ誰が用意するのか、代用できる物があるのか、これらを退院前から考えておかねばならない。なぜなら、退院後の医療ケアに必要なものすべてを病院側で用意してくれるわけではないからだ。たしかに、訪問診療を行っている病院ならば、必要な医療材料はすべて用意してくれることが多い。しかし、利用者側で衛生材料を用意しなけばならないこともある。最近では、大手のドラッグストアに行けば、消毒剤やドレッシング材などがすぐに手に入るようになった。調剤薬局が衛生材料を自宅まで配達してくれるシステムもある。だから、万が一足りない物があっても退院してから準備すれば問題はない。

しかし、中にはリアルタイムで必要なもの、しかも薬局で簡単に手に入らない衛生材料もある。そして、これらの準備不足は命取りになりうる。

点滴をしたまま退院することになったある利用者がいた。

彼は感染症のため抗生剤の点滴をしていたが、退院後も継続の指示が出ていた。そこで、抗生剤と医療材料は退院時に家族が病院から持ち帰ることになった。そして退院日の翌日、うちのステーションのスタッフが抗生剤の点滴をするために訪問した。

いざ点滴の準備を始めたところ、訪問した看護師は大変なことに気づいた。点滴に必要な物が足りない! なんと、抗生剤を溶解するための注射針が、1本も入っていなかったのである。

「針がないのに、どうやって点滴に抗生剤を詰めればいいんだよ!」
彼女は心の中で叫び声をあげたに違いない。

そして、彼女からSOSの電話が事務所に入った。

「所長、すいません。注射針が見当たらないんです!!」

私は注射針1本を届けるため片道20分車を走らせた。

潤沢な在庫を抱え、いつでも必要な衛生材料が手に入る病院の人間には「訪問看護の泣き所」がわからないのだ。すかさず準備不足を責めるクレームの電話を病院に入れたが、後味は悪かった。電話を切った後、かつて病院側の人間だった自分も、彼らと同じ過ちを犯していたかもしれないと思った。

今回の件で言えば、点滴に必要な衛生材料のリストを一覧表にしてFAXかメールで予め送っておけばよかったのだと後悔した。結局、困るのは自分たちなのだから。

相手を責める前に、自分たちができる対策をとること。それは、スムーズな医療連携にとって大切なことの一つかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?