見出し画像

老化と感受性

高校生の頃、こんな考えが頭に浮かんだのを覚えている。

「21世紀を迎える時、自分は一体いくつになっているのだろう?」

「私は1970年生まれだから、21世紀を迎える頃には30歳を超える。30と言えば、いよいよ『おじさん』の仲間入りかな~」

そして、あっという間に50も過ぎてしまった。30が「おじさん」なら、50は「おじいさん」の部類に入るのか? しかし、実際にその年になって感じることは、それほど自分が「おじさん」になった感覚がないことだ。
たしかに、体力は落ち、睡眠は浅くなり、髪は薄くなった。
しかし、「人生100年時代」と言われている昨今、明らかに老化は鈍化しつつある。

新聞のコラム欄で、人間の感性においては思春期も老年期も変わりがないことが、実体験を交えて語られていた。

「若いころ私は、人は老いるにしたがって、いろいろなことが楽になっていくに違いない、と思っていた。…だが、それはとんでもない誤解だった。
…たいていの人は心の中で、思春期だった時と変わらぬ、どうにもしがたい感受性と日々闘って生きている。」(月夜の森の梟・小池真理子)

年を取ると、何事にも達観するのだろうと、私も思っていた。世間に対して超越した見方、冷めた見方ができるので、身の周りで起きる出来事に、動じることなく、いちいち煩わされずに済むと考えていた。
しかし、最近では、まったくその逆だと感じることも少なくない。

「暴走老人」や「キレる老人」という言葉を巷で耳にすることがある。
かつて、「キレる」と言えば、ささいなことで逆上する若者の代名詞だったが、最近ではそれが中高年に移り変わってきている。
脳科学的に言うと、原因は感情の抑制機能の低下だという。つまり老化現象の一つということか。

たしかに、わが身を振り返ってみると、理不尽な出来事を見聞きして怒りを覚える場面が増えてきた。相手の「物の言い方」一つとっても、敏感に反応するようになった。若いころは見過ごしていたようなことも、物申さねば気が済まず、「ちょっと言い過ぎたかな」ということが時々ある。

一方で、若いころは気にも留めなかったことにも感じやすく、涙もろくなった。映画や音楽はもちろん、飼い猫のありふれたしぐさにすら心が動かされてしまう。若いころより、生きとし生けるものへの慈しみの気持ちが強くなったのかもしれない。

そして、人の「痛み」にも、敏感になった。

おしっこと便にまみれても、おむつを取り替えもらえない認知症の女性。
失禁を隠そうとしたのか、汚染された衣類がタンスの中から多量に出てきた。
とっても不快なのに、そこから逃げだしたいのに、誰にどうやって助けを求めればよいかわからない。

ネグレテクトではない。家族としても介護サービスをできる限り利用し、忙しい仕事の合間を縫って彼女の世話をしている。それでも、家で一人にしてしまう時間は長く、ケアが行き届かないのだ。

表現はできなくても、彼女は毎日、不安や悲しみ、(もしかしたら絶望までも)抱えて生きている。

「人間としての尊厳が守られていない…」 彼女の前で、涙が頬を伝った。

時々、そんな自分の想像力や感受性を持て余してしまう。
鈍感な方が、ずっと楽なのにと思うこともある。
相手に共感しすぎることは、相手に弱さを見せて、甘く見られたり、付け込まれる隙を作ることにもなる。情に流されて、本来決断すべきことが、できないこともある。判断を誤る原因でもある。

たしかに、感受性が強くなったのは、感情の抑制力が弱くなった「老化現象」の裏返しなのかもしれない。刺激に対して敏感すぎるのは、それに振り回されるという意味で、弱さを抱えることでもある。

学生の頃、「看護師はプロなんだから、患者や家族の前で涙を見せてはいけない」と先生に言われたことを思い出した。

たしかに、若いころは「感情抑制機能」を如何なく発揮できたのだろう。「冷めている自分」で自分を支えながら、患者や家族の苦悩を受け止めてきた。しかし、過度の感情移入を避けることは、バーンアウトから自分を守るための言い訳だったかもしれない。

傷ついている人は、うわべの共感とホンモノの共感を嗅ぎ分けることができる。

年齢を重ねた今、訪問看護をするようになって、敏感であることが自分の武器になりつつある。
この仕事をしばらく続けるのなら、年をとることも、悪いことじゃないかも、そう思うようになった。

「すべてのいい仕事の核には、震える弱いアンテナが隠されている。きっと…。」(落ちこぼれ・茨木のり子)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?