どういう仕組みになってんのか?/すげぇのか、すごくないのか?
① どういう仕組みになってんのか?
幽霊が見える人は、やたらとたくさん見えているのか?
現在進生形1人当たりの課霊人数は何人くらいなのか?
僕は見たことがないから分からないけど、死んだ人の数の方が圧倒的に多いのは確かだろう。
どの時代以降の人々が、いまだに幽霊として残存しているのか?
縄文人とか弥生人の幽霊の話はあまり聞いたことがないなとか。
飛鳥時代ですら聞かないのだから、やはり、現存する幽霊は平安以降の方々なのか?
いずれにせよ、現代が知らない歴史を色々と物語ってくれそうで、興味は募るばかり。
言葉は通じるのだろうか? 昼間は何をしてるんだろう?
そもそも、人間以外の生物に関しては、どういうシステムになってんだ?
そういえば、テレビの中はどうなってるんだろう?
宇宙の外の外はどうなってんだろう? 地球上の化石燃料はいつまで持つんだろう?
僕の体の中に小人が居そうな気がしてる……そういうことばかり、毎日、真剣に考えたものだけど、いつの間にか考えるのをやめた……正確には諦めたのか。
不思議という状態に立ち向かわなくなった。
今は、もう、答えが必要。
分かり易くて分かる範囲の。
あゝ、どういう仕組みになってんのか、色々と……
② すげぇのか、すごくないのか?」
記憶力だけでいえば、人間よりパソコンの方が「すげぇ」と思ったこと多々アリ。
スケジュールだって、1度、打ち込んでしまえば絶対に忘れない。1度でも取り込んだ画像は永遠にそのまま。
この日記だってそう。
僕は、1回前の日記だってもう正確には覚えてないのに、ここには、一言一句違わず、在り続ける。
でも、いつも、必ず、こう思い直す。
それって、結局、記録に過ぎないよ、
って––––
––––スケジュールが大事なわけじゃなく、そこに誰がいて、そのために何を準備しての方が本質で、何月何日何時何分の5階会議室Bが大事なわけじゃない。
ハードディスクの中に保存されている画像だって、僕が何かを感じるヒントに過ぎないし、そこからは匂いもしなければ、存在だけじゃ何の意味もない。
この日記だって、ただの記録で、十年後、忘れた頃に、もし、コイツが残っていてくれたなら、未来のオッサン化した僕が、何かを感じてくれてこそ、存在価値を発揮する。サイボーグ化していなければね。
それを読んで心に去来するのは、その日という時空の断片かも知れない。「あ……あの日、夜中に独り、酔っ払って書いたなぁ」とか。
父が撮影した幼い頃の自分の写真を見たら、ビートルズ好きの母親の趣味でマッシュルームカットにされた24年前の僕––––
お前のことは僕がいちばんよく知っているから、色々と思い出す。
今じゃ鋪装された家の前の道はまだ砂利道で、それを渡れば、駄菓子屋があって、ファンタは1リットル瓶が最大で、それは、返却すれば小遣いに換わる錬金術の種で、革新的だった500ミリ缶を取り扱うチェリオの自販機には、毎年、カマキリが卵を産みに訪れた。
おばあちゃんがまだ生きていて、目一杯、甘やかされて、母の髪はまだ豊かに黒く、父の皺は少なかった。家の便所はボットンで、音楽なんかまだ全然知らなくて、なのに、よくもあんなに毎日が輝いていたものだな。
虫に触ることはできたけれど、酒はまだ飲めなかった。その先、それ以上にロン毛になることがないことを、お前はまだ知らない。
誰かの人生をまるごとビデオに収めたら、それはきっと感動巨編になる。どんな奴の人生にも、それなりに喜怒哀楽はあるし、「それなり」は偉大だ。
卒業とか、失恋とか、きっと泣ける。ただし、それを撮影している人も、それを観ている人も、撮影対象とまったく同じ時間を費やして、同じ人生を疑似的に追体験するだけの人生を送る羽目になる。
結果、オリジナル以外にとっては、無意味じゃないか。その共感の仕方は、何かが違う。感動巨編であっても、アートじゃない。
記録。
でも、アートも、それに近い存在ではある。誰かが人生を賭けて、他人の人生に食い込んでくる。酔っ払って、ボーリング場のジュークボックスでグリーンデイをかけながら、仲間のスローイングが青っぽくスローモーションに見えるとき、何だか泣けてくる。
人に勝手に想起させて、最深部で感じさせる––––アートは、人生の中のすごい断片を切り取ってくる。結局、時間短縮でしかないのかも知れない。
人生をまるごと、撮影したがごとく、人生をまるごと、観せられたがごとく。
だから、誰しもがそれを生み出すことはできなくても、誰でもそれを感じることはできる。 いや、やっぱ、生み出すことさえもできる。 記憶に訴える、記録じゃなくて、記憶に。
僕の幼い頃の写真は、きっと、アートだ。泣けるもん。父が死んだら、遺影よりこの写真を見て泣いちゃいそう。
心って、すんごい容量。G5もまだまだ甘い。でも、スケジュール管理は任せる。 たまに、任せることすら忘れる。 CPUは、僕の方が下?––––すげぇのか、すごくないのか?
––––2005年6月21日
(この頃の僕は、その後、自分が腰まで髪を伸ばすことを知らない。そして、それをもっとも嫌うのは、他ならぬロン毛にさせた母親だ。G5も真っ青のモバイルデバイス「iPhone」が登場することも、オッサン化してもサイボーグ化はせず、この記録が記憶になることも知らない。次の十年後、これが僕にとってどんな存在になるのか? あまり楽しみではないことに、心齢の劣化を感じる)
【 マ ガ ジ ン 】
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