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僕らは道具に使われている 〈前編〉

変えられない親切設計に馴らされることで、僕らは道具に使われている。いかに便を良くするかという創意工夫に自分の頭が介在しない。あらかじめ利便が用意されていて、頭はそれに慣れるだけ。道具が体の一部になるのではなく、体のほうが道具の一部になっている。道具への順応性は、怖いくらいにオートマチックなのだ。のみこまれてしまう。

ある年の幕開けに、山田洋次監修・出演のドキュメンタリーを見た。蒸気機関車修復の模様を追ったもの。見る限り、あれほど巨大な機械であっても、創意工夫のソースは人の頭に委ねられていた。機械が入り込む余地は、人間に足りない筋力の部分。山田監督いわく「産業革命の賜物」なのだそう。間違いなく僕はその延長線上で文明を謳歌している。にもかかわらず、その言葉がひどく前時代的に響いてしかたなかった。

足りない筋力を補う存在だった機械が、チューリングマシンの登場と進化によって足りない頭脳まで補うようになった。ときとして人間は、その手足でしかない。というのも、その数週間まえに青森を旅したとき、スマートフォンを使えない状況の不便さを嫌というほど感じたからで。

もしもインターネットが使えなかったら?

想像してみてほしい。何かを調べるために、まず調べかたを調べなければならない。図書館に行く?誰かに尋ねる?図書館はどこにある?誰に尋ねれば答えを知っている?専門機関に電話で問い合わせる?電話番号は?答えを見つけるまでの行程と時間を思うと途方に暮れる。一種の情報弱者というやつだ。

僕が在ると信じて疑わなかったフットワークの軽さは、いつでも簡単に情報が手に入る環境に担保されていた。それが取り払われたとたん、自分の無知が露呈する。もう笑うしかない。道具を、情報を持たない現代人は、極寒の地で丸裸も同然だった。

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