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【掌編小説】流れ着いた流木

「え、はい。なんですか?」
 波の音がやけに五月蝿くて反応が遅れた。
 振り返ってみると私の子どもよりもずっと若い男だ。時間と顔つきで判断するに大学生のように思われた。
「あ、いえ。挨拶です。こんにちは」
 彼は気遣って、こんにちは、を大きく丁寧に発声した。ありがたくもあったが、そのような扱いを受ける歳なのだと思い出され、寂しくもある。
「ああ、すいません。こんにちは」
 働いていた頃のようになるべく明朗に挨拶を返しておく。自身へのささやかな抵抗だ
「掃除、いつもされてるんですか?」
 私の下げている青いゴミ袋を指して彼は言った。これが定年してからの私の日課だ。
 仕事一筋に生きてきた。つまらない人間とよく言われた。
 おかげで今は家にいてもやることがない。せめて妻の家事を邪魔をしたくないという思いによっての行動だ。
「ええ、天気が悪くなければ」
「いつも、ありがとうございます。僕、ここでサーフィンしてるのでたまに掃除するんですけど、ありがとうございます」
 目を背けたくなる眩しい笑顔だ。私は我慢して営業スマイルで謙遜した。
「いえ、定年して暇なものですから」
「あ、定年されたんですね」
「ええ。ずっと家にいると妻が嫌がるので、私の方こそ、ここには助けられてますよ」
 仕事が身から離れたのだろう。本音が漏れた。ほんの少しの会話の中でたくさんのミスが出ていることを感じていた。ここ最近はずっとそうだ。この悲しさが慣れない生活リズムにずっと付き纏っている。
「新しい人生ってやつですね」
 そんなものを始められるほど、私は器用じゃない。死んだまま生きているような気さえしているのだから。
 遂に、私は目を背けた。
「あ。あそこの流木」
「え」
 私の視線を追って彼はそれを見つけた。白く朽ち果てた木の残骸。流木だ。
「これ貰って帰ってもいいですか?」
 屈託のない笑顔で彼は言った。
「……私は構いませんが、どうするんです?」
「アクアリウムに使うんです。えっと、アク抜きして水槽の飾りにするんです。インテリアですね」
「へえ。そんな風に使ったりするんですね」
「はい。それじゃあ、これ、いただきます。ありがとうございました」
 彼が去った後、私は羨ましいと思った。
 その後、程なく私は流木を一つ見つけた。
 無骨ながら白く滑らかな表面は石のようにも骨のようにも見える。
 拾い上げてみると思いの外軽い。手に馴染む。
 何かを始められそうな気がした。


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