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【掌編小説】カミサマの冷蔵庫

 眠りは小さな死であるといった比喩がある。ならばと、ふとした思いつきが脳裏を過った。
  この思いつきは目覚めのようであった。
  対して、彼女の目覚めは緩やかで、誕生にしては寂しくて、しかし、死去と呼ぶには不自然だ。
 「暗い」
  彼女は声を宛てた。
 「起きたのですか?」
  私の疑問に彼女は答えない。答えられる解を持っていないのだ。
  眠りを知らない。目覚めを知らない。彼女は光を忘れてしまった。
 「ここはどこ?」
  ここは……
 「冷蔵庫です」
  自分の言葉とは思えない答えだった。
私も自我を忘れつつあるのだ。
 「冷蔵庫?」
  彼女が訊ねる。 
「そう。冷蔵庫」
 「なんで?」
  なんで? という質問の仕方をかつて私は嫌悪していた。なぜかは覚えていない。
 「保存するためです」
 「……なんで、冷凍庫じゃないの?」
  賢い子だ。
 「昔は冷凍庫でした。温度が保てなくなったから、冷蔵庫になったんです」
 私は誤魔化した。
 「そうなんだ」
  彼女はため息を吐くように微笑んだ。
 「じゃあ、春が来たのね」
  春風のように温度が揺れた。
 「こんなに暗いのに春なのですか?」
  私の問いは怒りに滲んだ色を帯びていた。しかし熱すら持てない色だった。
 「暗いってなに?」
  光を知らない彼女には分からない話だ。自分の愚かさが嫌になる。
  もうこの世界も終わるのに、彼女にしてやれることが何か分からない。
 取り返しのつかない過ちを前にして、流れる時に身を窶すしかない居心地の悪さ。しかし、心が動いていない。
 心を忘れるとはこんなに不快なものなのだろうか。私という罪を身に受けたような思想にある。 
「ねえ」
  彼女が私に言葉を宛てる。この世界は言葉しかもう残っていないから。
 「なんですか?」
 「私は誰?」
 「あなたはカミサマです」
  彼女が熱を帯びだした。もう終わりが近いのだ。
  無垢なままに腐れ往く。消え始めた彼女が問いかけた。
 「あなたは誰?」
  ………………ダレ? 誰……?
  彼女の疑問は私の中に届き、留まり、根付いて、芽吹く。
  そうだ。私は誰かであった。意思があった、人だった。
 「私は……」
  見つめる瞳を捕まえて、答えを探して考えた。私の思考が熱を帯びた。
 「私は……」 
 彼女の瞳が私を映した。
 私の瞳が光を見つけた。
 「私は、あなたです」
  すっ、と風が吹いた。
  私を抜けていく風は柔らかく、優しい
  心地の良い死の温もりだった。

【コールドスリープ停止 被験者C博士 死亡】


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