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無理解の受容、That's Life...

ついに先日、傑作と耳に聞こえるアメコミ映画、主演ホアキン・フェニックス、監督トッド・フィリップスの『JOKER』を友人と拝見して参りました。スクリーンに現れていたのは一言で「傑作!」ともろ手を上げて喜ぶにはあまりにも重厚で、深い悲しみに包まれたブラックジョーク。私のフォロワーさんに感想を聞いてもらいたかったのでこうしてnoteに書いているのですが、何を書くべきなのか、自分は何を話したいのか、とっても迷ってしまったので、今回は印象に残ったシーンの話を入口に書いていこうと思います。ちょっと長いですが、よければ一緒にお話しましょう。※ネタバレが多分に含まれます。ご注意を!

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ホアキン・フェニックスのうごめく肉

まずやはり目を引くのは主演、ホアキン・フェニックスの肉体による演技でしょう。初めての殺しの後トイレで踊るダンスや、ジョーカーの衣装を身につけて階段で踊るダンス、その後の刑事とのチェイスの場面などは、どこか滑稽さを体の端々に滲ませながらも、裏に深い怒りと悲しみを携えた演技でした。地下鉄での三人殺しの最後の一人、脚を撃たれ逃げていく男に銃を向けたまま『ツカツカツカ!』と歩いて行く動きは、古いカートゥーンがそのまま肉の世界に現れてきてしまったような鮮烈な恐怖と、視聴者の怒りを代弁するに相応しい畏怖感を同時に呼び起こします。

また冒頭の、ピエロ派遣会社のロッカーでのシークエンスにも目を見張るものがありました。めきめきめきという不気味な音とともにこわばり、うごめくホアキンの背中は、肉が、ため込まれた怒りを抑え、歯ぎしりをしているような印象を与えます。直後にその音は衣装の靴を曲げている音だったことが明らかになるのですが、アレは笑っちゃうくらい怖いシーンでしたね。その後の雇い主に見せる凍りついたような笑顔や、ゴミ袋を無茶苦茶に蹴り回すシーンには、すでに私の大好きな『ジョーカー』の片鱗が見て取れます。しかし、彼(彼と、トッドフィリップス)が最終的に見せたのは、私が以前に「カッコイイ!」と思った、あのヒース・レジャーやジャック・ニコルソンが描き出した『ジョーカー』とは全く別の、哀しくて滑稽な『ジョーカー』でした。

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『JOKER』はジョーカーのオリジンか、あるいは……?

本作の興味深いポイントのひとつに、『ジョーカー誕生の瞬間がわからない』という点が上げられると思います。いやいや、と思われるかも知れませんが、まあお聞きください笑。

いままでのアメコミ映画では、多くのヒーロー/ヴィランが子どもでも理解しやすいストーリーラインと、明確なキッカケによって超人間的存在へと『変質』していますよね。もしくはオリジンが描かれておらず最初からヒーロー/ヴィランだったものとして描かれていると思います。

我らが親愛なる隣人・サムライミ版『スパイダーマン』はベンおじさんの死によって。その宿敵『グリーンゴブリン』は自身への薬品の投与によって。そしてノーラン版の『バットマン』は両親の死、あるいはその後レイチェルに頬を叩かれ考え方が変わった時に、コウモリの仮装はしていなくとも中身はバットマンになった。ジョーカーですら、原作コミックではバットマンからの逃走中に化学薬品の中に落ち、気が狂ったという設定があるくらいです。ヒーロー/ヴィラン誕生にかかるわかりやすいストーリーとキッカケは『オリジン』と呼ばれ、アメコミ映画ではとても重要なものでした。では今回の『JOKER』で、ジョーカーのオリジンには、どのシーンが該当するのでしょうか?

こう思われるかも知れません。赤スーツにメイクをキメて、階段で踊るシーンがジョーカーの誕生だよ、と。あるいはその少し前、マーレイのショーに出るためメイクをしているシーン? それとも母親を殺した瞬間を想起されるでしょうか。もしかしたらその直後の、アーサーが冷蔵庫に入っていき扉を閉めるという興味深いシークエンスかも? もっと行けば地下鉄で三人を殺し、トイレでダンスを見せたときには既にジョーカーだったと思われる方もいらっしゃるでしょう。ですが、あれは明確な『オリジン』ではないと私は解釈します。何故なら私の解釈において、ジョーカーがパトカーの中から助け出され、ゴッサムの過激な住人たちに崇められても、また映画が終わり、《The end》の文字が画面に現れた時点でも、彼はまだ『ジョーカーになっていない』からです。詳しくご説明いたします。

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“アーサー”という、『どこにもいない男』。

私がこの映画で注目したかったのは『アーサーの話を誰も聞いていない』という点でした。看板を盗んだ子どもたち、その楽器店の店主、ピエロ仲間の同僚、雇い主、カウンセラー、トーマスウェイン、あげく彼の愛している母親ペニーフレックや、子どもの頃から憧れていたマーレイですら、誰も彼の話を聞いていない。『何故僕が看板の弁償を?』と問えば雇い主は『知るか。俺が聞きたい』と返します。カウンセラーはずっと同じ質問を繰り返し、自分側の事情しか主張しません。ペニーの息子だとわかったとたんトーマスウェインも彼を門前払いにします。

コメディアンとしての人生初のショーが終わって帰宅した彼が母親と会話するシーンがありましたね。内容はこんな感じです。『あら、香水の匂いがするわ』『大事なデートだったんだ』『……手紙を投函しておいて』。デートの! 話は! 聞きたくないのか!? と私は思わず舌打ちしそうになりました。大切な息子のことじゃないのかと。アーサーに事情を聞きにくる刑事ふたりにも腹立たしいものがありましたね。このふたりのせいでアーサーの母親が入院する羽目になったかも知れないのに、アーサーが『あんたら何を聞いたんだ。脳卒中だと言ってたぞ』と言っても素知らぬ顔で、『それはすまない。ところで……』と事件の話を聞きたがる始末。言葉が全然響いている感じがしないのです。彼らの興味は目下、目の前の男が地下鉄三人殺しの犯人か否かだけ。自分たちのせいで目の前の男の母親が脳卒中になったかも知れないことなど『どーでもいい』のです。

これが最もわかりやすく表現されているのは、二度目のカウンセリングのシーンですね。アーサーは明確に台詞を残しています。『僕の話を聞いてないよね?』しかしカウンセラーはそれには答えません。カウンセリングが今日で最後であるということを一方的に伝えます。『この街にとってはどうでもいいことなのよ。あなたも、私も』。ああ、そうですか、そうですか。そんなことを聞かされたら小声で言いたくもなります。『クソだな』と。

どういうことなのでしょうか? なぜこんなにもアーサーは話を聞いてもらえないのか? 簡単です。彼という『個人』は『存在していない』のです。カウンセラーや雇用主や刑事、彼らは『アーサー』とは対峙しておらず、『脳に障害を負った変人』と対峙しているのです。そこにはカウンセラーと患者、雇用主と社員、母と子、主催者とゲスト、そう言った『役割』しか存在しておらず、『個人』がどこにもいない。『役割』に沿わない会話は排斥され、役割の外にある『アーサー』は無視されるのです。血の通った会話は彼の妄想の中にしか存在しない。あの醜いゴッサムという街において、”アーサー”は『どこにもいない男』なのです。

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”金持ちを殺したピエロマスクの男”という偶像

さて、単純に考えればこういう道行きになるでしょう。『だから彼はジョーカーになったのだ』『ジョーカーである時、彼は世界と繋がれるのだ』『だから彼はジョーカーであることを選んだのだ』と。そういう解釈自体は否定しません。否定しませんが、私はそうは思いません。何故なら、誰も『ジョーカー』となんて対話していないから、です。

印象的なシーンがありました。初ライブの後、アーサーが道で新聞の記事を目にするシーンです。新聞にはでかでかと『殺人ピエロ、逃走中』とかそんな文言とともに、凶悪そうなピエロのイラストが描いてあります。アーサーはそのイラストを真似して、少し凶悪そうな表情を作ってみせ、そしてその直後、タクシーの中から自分の方を見ているピエロの仮面をつけた者を目にするのです。

地下鉄三人殺しの後、トーマスウェインが凶悪犯を『ピエロだ』と皮肉ったことから、ゴッサムの市民に大きなムーブメントが巻き起こります。アーサーがベッドに横たわりながら、床に『kill the rich(金持ちを殺せ)』と書かれた新聞が広がっているシーンがありますね。テレビでは放送禁止用語を叫ぶ連中が、ピエロの仮装をして決起集会を開いています。

つまり、実はここでも『役割』の話が展開されているのです。アーサーの人生における大事件だったはずの出来事が、その一側面だけが解釈された結果、単に『金持ち』と『貧者』の話になってしまっている。決起した貧者たちは偶像を英雄視しているに過ぎない。新聞やテレビが伝える、【金持ちを殺したピエロマスクの男】。殺人を犯しているとはいえ、これは不満が溜まったスラム街の貧者たちからすれば『ヒーロー』です。ですがこの文章は『アーサー』のことは表していない。あの地下鉄でアーサーの身に起きたことを我々は知っています。ですがこの【】内の一文から、彼の身に起きた事実そのものを思い浮かべられる人が果たして何人いるでしょうか? もしそれが可能な人間がいたとしても、きっとあの決起集会には参加していないでしょう。

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笑い男(攻殻機動隊S.A.C)とワイルドタイガー(Tiger&Bunny)との関連

さて、ここで少しだけ脇道にそれますが、【偶像崇拝】という点で今回の『JOKER』と個人的に連関があると感じたのが上記の二者でした。私は最初、ホアキン版ジョーカーはヒース版ジョーカー、あるいはニコルソン版ジョーカーの過去であるという前提状態で見てしまっていたので、映画を見終わってから『このジョーカーとあのジョーカーは繋がらないな……』という感想を抱きました。そして両者をつなげるために頭に浮かんだのが、逆説的ですが、『両者は別人である』という結論だったのです。

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ネタバレになってしまいますのでご注意、なのですが、簡単に『笑い男事件』と『ワイルドタイガーの来歴』について話します。『笑い男事件』とは攻殻機動隊S.A.Cにおける全体を通して捜査される事件のことで、そこでは『オリジナルのないコピー』という概念がとても重要な位置づけを持っていました。『笑い男』という、顔を隠してメディアに登場した男を人々が模倣し、「私が笑い男だ」と主張しながら暴動事件を起こしたのです。ですがいくらその人たちを捕まえてみても『笑い男』本人ではないし、『笑い男』に実際に会った人すらいない。彼らはどこにもいない、誰かもわからない人間の主張をコピーし、ある意味全員が総体で『笑い男』として機能していたのだ、というようなお話です。非常に難解なストーリーなので、私の解釈は一解釈に過ぎません。今回のお話については、「この人はこういう解釈で見たんだな」という風にお読みください。

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次に『ワイルドタイガーの来歴』ですね。彼はシュテルンビルトという架空の街で活躍するヒーローです。彼の身体にはハンドレッドパワーという、まあ簡単に言えば『超力持ちになる』特殊能力が備わっていて、子どもの頃は能力を制御できず、友達に怪我をさせてしまうからと自分の力を恐れていました。しかしとある銀行強盗事件に巻き込まれた際、当時街を支えていたスーパーヒーロー・Mr.レジェンドに助けられ、彼に憧れたことをきっかけにヒーローを志すようになったのです。しかし、Mr.レジェンドは実は晩年能力の減衰に苦しみ、酒に溺れて息子や妻に暴力を振るい、あげく他のヒーローが捕まえた犯罪者を自分が捕まえたことにするなどして功績を上げ続けていたことが視聴者には知らされます。ワイルドタイガーはどこか抜けたところがありながらも常に公正で正義感にも情にも厚い、まさに正義の味方として描かれますが、彼が憧れていたのは酒に溺れて八百長まがいの功績を上げる醜いヒーローの、メディアに取り上げられる過程でフィルタされて生まれた『善なる側面』=『偶像』だった、ということですね。

『笑い男事件』、あるいは『ワイルドタイガーとMr.レジェンドの関係』の興味深いポイントは、いずれも『存在しないものをコピーした結果、本物ができあがる』という点です。どこの誰かもわからない『笑い男』の主張はそれをコピーした人々によって大きな社会的運動を誘発し、その参加者は自らをこそ『笑い男』だと名乗りました。そして、本当は理想のヒーローなどではなかったMr.レジェンドの『善の側面』だけをコピーしたワイルドタイガーは、結果的に最も『理想のヒーロー』的な存在となり、自らが救った街の人々やバディを組んでいた後輩ヒーローに慕われました。

それと同じ現象が、本作『JOKER』でも起こっているのでは、と私は考えました。つまり、ヒース版もしくはニコルソン版のジョーカーは、ホアキン版ジョーカーの『支持者』なのではないか。映画のラスト付近で壊されたパトカーからアーサーを引っ張り出し、車の上に載せ、彼の復活に熱狂した『支持者』たちの中に、過去の作品に登場したジョーカーはいたのではないか。その人物はアーサーが演じたジョーカーに憧れ、彼をコピーすることで、二代目のジョーカーになったのではないか。

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”ジョーカー”という、『どこにもいないヴィラン』。

上記の解釈は、あくまで『今回のホアキン版ジョーカーといままでのジョーカーを繋げるとしたら』という前提で思いついた可能性だったのですが、この見方は私にとってとある大きな疑問を生む引金になりました。それは以下のようなものです。『ジョーカーなんて本当にいたんだろうか?』

ゴッサムという『役割』同士が会話する街で、『アーサー』は誰にも話を聞いてもらえない『どこにもいない男』でした。彼は職をクビになり、カウンセリングを打ち切られ、ウェインとの血縁を否定され、愛していた母が虐待親だったという事実を知ります。そして同時に、自分が起こした殺人事件を自分たちの都合のいいように捉えた過激派が、自分とかけ離れた『ピエロマスク』の男を崇め奉っていくのも目にします。

先ほど少しだけ触れた、興味深いシーンをもう一度思い返してみましょう。それはアーサーが冷蔵庫に入り、扉を閉めるシーンです。これは実は大変に象徴的なシーンでした。アーサーという、妄想と現実の区別がつかない『信頼できない語り手』をうまく使って、彼の心の中を比喩的に表現してみせたのです。ジョーカーのオリジンがあるとするなら唯一このシーンだけはそう取れなくもないかなと感じているのですが、私は、アーサーがここで気づいたのではないかと思うのです。誰も話を聞いてくれないのは自分が『アーサー』だからじゃないのか? 彼らには『役割』しか見えていなくて、『アーサー』のことなんか誰も見ていないのではないか? じゃあもういいや、と彼は思ったのでしょう。『僕なんか居なくていいんだ』と。『役割さえあればお前らはそれでいいんだろ?』と。そして彼は演じることにしたのです。現時点で唯一、自分が熱狂してもらえる『役割』。地下鉄でいけすかない金持ちを撃ち殺し、ピエロの仮装で狂ったように踊り、笑う、貧者のヒーロー。『ジョーカー』という役柄を、演じることに決めた。

そうした途端、いままで一人もいなかった味方が一気に増えました。警察から逃げる際は自分と同じピエロの格好をした集団が代わりに警官を妨害してくれます。あんなに誰も助けてくれなかったのに。冷たい視線しか投げかけてこなかったのに。アーサーがピエロの仮装をした途端、つまり『ジョーカー』を演じ始めた途端、彼らはアーサーを助けてくれる存在に変わった。こんな皮肉なことがあるでしょうか? こんな喜劇的なことがあるでしょうか? 『アーサー』は自分が『アーサー』であることを諦めたのです。幸せになりたくて、人並みに生きたくて、それ故に、彼は、一個人であることを、諦めざるを得なかった。これがジョークじゃなくてなんだというのでしょうか?

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パトカーの上で、自分の血液で笑顔のメイクを作って見せたアーサー。パトカーから暴動の様子を眺めて『綺麗だ』と笑ったアーサー。私にはあの行動や発言が、本心から来るものだとはどうしても思えませんでした。彼は演じていたに過ぎないのではないかと思ったのです。脳に障害を負ったうだつの上がらない、しかし善良で、母親思いの、優しいピエロであることを彼は辞めた。そして周囲に求められている自分――金持ちを笑いながら撃ち殺す狂気のピエロ、『ジョーカー』を演じ始めた。

本作はアーサーという天使が堕天する物語だと最初私は思っていました。善良な市民が悪意に晒され、『ジョーカー』という悪魔になっていくお話なのだと。しかしそうではないといまは思います。この物語は、『人間』が『役割』に呑み込まれるお話です。そしてそれは、恐らくゴッサムの市民には『理解できないジョーク』でしかない。『役割』に支配されている人間しかいない、あの醜くて汚いゴッサムという街の人間には、わかりっこない。唯一理解できる人間がいるとすれば、両親を殺されたことで『役割』の世界から『個人』の世界に羽化していくであろう、ブルース・ウェイン=未来のバットマンくらいではないでしょうか? この作品において『ジョーカー』というキャラクターはアーサーが演じたただの『役割』、どこにもいないヴィランなのです。それは『アーサー』という『人間』が、ゴッサムにおいては存在しないのと同じように。

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期待外れのマーレイ

私にとってこの映画で最も悲しみが深かったのは、マーレイについてです。冷蔵庫に入るシークエンスで完全に心を閉ざし、人間であることを諦めたかに見えたアーサーは、直後のシーンでかかってきた電話にこういわれます。『マーレイの番組に出ませんか? この間の映像が予想以上に反響があって……』嫌な予感はしつつも、アーサーは番組に出ることを承諾します。アーサーは子どもの頃からマーレイに憧れていました。番組も何度も見たでしょう。録画したビデオを使って自分の家でリハーサルをするシーンなどは『キング・オブ・コメディ』によく似ていますね。彼は『ノックノック』のギャグの際、リハーサルでは銃を自分の顎につきつけ、撃ち抜きます。彼は最初、自殺する予定だったのかも知れません。しかしその銃口は最終的に、マーレイの方を向いた。

マーレイがアーサーの妄想の中と同じく善良で、『役割』の外から話ができる人物だったなら。観客やスポットライトやいまの立場を捨て、アーサーを息子にしてくれるような人物だったなら、アーサーは役割の世界から戻ってこられたかも知れません。しかし実際は、マーレイは自分がアーサーを『ジョーカー』と称したことも覚えておらず、やっていることはアーサーの発言にオチをつける――つまり役割の外の会話を役割の世界に戻す作業ばかり。あげく、いかに殺人が悪と言えども、その背景にどんなことがあったか、アーサーがどんな目にあってきたかにはまったく注意を払いません。アーサーがあれだけ、目に涙を溜めて心の中を吐露しているのに。アーサーはまたも絶望するのです。この人も『役割』の世界の住人なのだ。『アーサー』はやはりいらないんだ。その後の結末は……皆さんもご存じですよね?

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無理解の受容

本作には印象的な楽曲がいくつも使用されています。中でも一番この作品にマッチしているのはフランクシナトラの『That's life』(1966年)でしょう。直訳すれば『それが人生』となります。マーレイが番組の最後に言う台詞でもありますね。なんと皮肉な一文でしょうか。

本作『JOKER』は無理解の受容史とも言うべき凄惨な作品でした。一人の善良な市民が徹底的に無視され、『個人』であることを諦め『役割』の世界に飲まれていく。マーレイのショーで最後、アーサーはテレビカメラに向けてその台詞を言います。画面は直前で遮られますが、彼が『それが人生』を言おうとしていたのは明らかでしょう。彼の人生はまさに喜劇だった。【アーサー】が自信の幸せを手にするためには、【アーサー】でない何者かを演じなければならないという矛盾。それが、人生。しかし【】内の名前は誰でも一緒なのかも知れません。マーレイもトーマス・ウェインもペニー・フレックも、そしてもしかしたら我々ですら、本当の意味では誰も幸せになることなんてできないのかも知れない。そのことに気づいたアーサーはもはや笑うしかないのです。そしてそれは役割の世界を当然のものとして受け入れる、目の前のカウンセラーには理解することがそもそもできない。

『That's life』にも象徴的な歌詞が出てきます。それは以下のようなもの。

" I've been a puppet, a pauper, a pirate, a poet, a pawn and a king."

『私は人形、貧者、海賊、詩人、捨て駒、王、いずれにもなったことがある』という意味です。これは言いかえれば、数多の『役割』を演じてきたことがあるということでしょう。しかし、『That's life』の歌詞には続きがあります。

" Each time I find myself flat on my face. I pick myself up and get back in the race."

『私は自分の顔が能面のようになる度に、自分をどうにか拾い上げて、レースに戻してやるんだ』という意味の歌詞です。アーサーはいままで何度も、自分を拾い上げてレースに戻してきた。そしてこの映画を見てきた我々には、誰かが必死で自分自身を拾い上げ、レースに戻しているのを知ることができるはず。目の前の相手と『人間』としてではなく『役割』として会話してしまっていはしないかと自分を省みることができるはず。この映画が公開されたとき、こんな感想を目にしました。

『ジョーカーは我々の中にいる』

確かに『彼』は身近にいるように見えるでしょう。中というよりは外にいるかも知れませんが、しかし再三言いますが、彼は『どこにもいないヴィラン』です。我々が彼という『役割』を演じようとさえしなければ、我々が『人間』であることをやめなければ、彼はどこにも表れない。『That's Life...』――それが人生。あなたの人生はどちらですか? 役割としてではなく、ひとりの人間として、あなたが笑顔を浮かべられていたらなと私は思います。

以上、映画『JOKER』の感想でした。最後の方は詩みたいな感じになってしまいましたし、かなりの長文になってしまいましたが、お付き合いいただきありがとうございました。皆さんの『JOKER』の感想もお待ちしていますので、是非お喋りいたしましょう! それでは!

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