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オリンピックのピクトグラム

1964年の東京オリンピックで世界の歴史上初めて、国際行事における絵文字の案内サインが整いました。デザイン界の法皇と謳われたデザイン評論家勝見勝のディレクションとそのデザイン制作に協力した若い日本のデザイナー軍団10余名の業績です。施設案内用ピクトグラムは迎賓館での共同制作だったので、デザインの制作者と利用者の立場を兼ねることができました。その結果、統一感は希薄ながら、客観性と理解のしやすさを特徴とする素直な成果を作り出しています。

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1964年 東京オリンピック 施設案内用ピクトグラム

国際ピクトグラムの開発は1964東京オリンピックが最初、という認識は正しくありません。「国際行事で最初にピクトグラムを実用化したのは」と注釈がつけばOKです。当時、国際グラフィックデザイン団体協議会(ICOGRADA)は、世界の大学600校から一般案内用の絵文字デザインを募集しており、国連の中には言語障壁打破国際委員会(ICBLB)が設けられて日本からも理事を送ったり、国際鉄道連盟(UIC)や国際航空輸送協会(IATA)や国際民間航空機構(ICAO)がそれぞれの絵文字案を発表したり利用しています。

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1964年 東海道新幹線が車内にとりつけた国際鉄道連盟(UIC)トイレマーク

そして1968年にはメキシコオリンピックでランス・ワイマンが手足と用具で表現したピクトグラムの成果を見せています。

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1968年 メキシコオリンピック 競技種目ピクトグラム

1972年のミュンヘンオリンピックでは、O.アイヒャーが、垂直、水平、45度だけに単純化したデザインをしました。

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1972年 ミュンヘンオリンピック 競技種目ピクトグラム

ドイツ・ヒトラーに反抗して、個性的表現によって、感性が伴う芸術的表現を最大限拒絶したからだ、という背景は重要でしょう。勝見勝は東京オリンピックの競技種目の絵文字を、後に続く主催国がよりよく参考にする国際バトンリレーを提案し、O.アイヒャーにも60年代から70年代始めに頻繁に手紙を書いていました。O.アイヒャーの到達した成果は、今回のドイツのピクトグラム展(絵文字サイン展)において、対局に位置するNTTのユニコードとのアンヴィヴァレンスを見取らせたいとキュレーター(学芸員)が事前に力説していた成果に到達したかどうか、第2会場フライブルグ現代美術館のプレスリリーズで見ておきましょう。

フライブルグ現代美術館のプレスリリーズ
私たちの日常生活は、絵文字なしでは考えられません。emojiは、メッセンジャーやソーシャルメディアを通じて世界中に広がっています。言葉を超えた象徴的な言語として、境界を越え、コミュニケーションの方法を根本的に変えます。emojiは、私たちの表現の可能性を広げるものなのか、それとも厳格なカテゴリーやグラフィックの類型化によってさらに制限するものなのか。この展覧会では、1920年代に始まったピクトグラムの物語を現代までたどり、社会の変化とデザインがどのように共存し、互いに影響し合っているかを紹介します。アーティストとデザイナーは、さまざまな記号システムを使って、まったく異なる目的を追求しています。視覚的言語は、知識を伝え、参加を可能にするものであり、公共生活をよりよく組織するための道具であり、感情をより直接的に表現するためのものでもあります。この展覧会は、デューレン・レオポルド・ホッシュ美術館(2020.9.24~2021.2.7)とフライブルグ現代美術館(2021.3.27~2021.9.12)との共同企画による巡回展です。(石原伊都子訳)

1964年の東京オリンピック競技種目のピクトグラムは、勝見勝の人選で、山下芳郎が一人でデザインしたので、全体の統一感があります。その上、「個性的・趣味的な形態を避けること、競技の持つ決定的な特徴を表現して、モジュールを使わない。単純明快にこだわり、補助的形態をなるべく控える」など、自分で自分のデザイン基準を設けて実践しているので、その後の競技種目ピクトグラムのモデルケースになったとも言えるでしょう。

それに対して今回の2020東京オリンピック競技用ピクトグラムは、田中一光デザイン室出身の廣村正彰氏の2年に及ぶデザイン作業で、全33競技50種類のスポーツピクトグラムに努力が注がれました。1970年代に勝見勝がオリンピックピクトグラムの国際バトンリレーを提案した理由は、主催国の個性を打ち出すデザインが優先されすぎた結果、視覚言語の機能が大きく損なわれて、国語の違いを越えて、見た瞬間に必要な意味を正しく共通に理解しやすくする原点回帰のための国際協調の提案であったわけです。

けれども国際間でそうした連携作業が見取れないならば、1964年の日本の成果を、2020年を機に日本国内でバトンリレーすればよい、と太田はマスコミに対して発言してきました。それは亡き田中一光氏の意向でもあったのでしょう。廣村正彰氏の努力は、山下芳郎デザインの特徴を活かしながら、競技団体からもチェックと助言をもらい、改善と改良を重ねた訳で、その誠実さこそ高い評価の対象と言えるでしょう。太田は山下家に最晩年にもお邪魔していたので、山下芳郎の葬儀に出席したところ、デザイン界からは田中一光の献花が1束あるだけで不思議に思った次第です。

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日本医学会の恩人 エルヴィン・フォン・ベルツ / デザイン 山下芳郎

今は亡きお二人は、今回の競技種目ピクトグラムに、満足されていることでしょう。
ただし、ピクトグラムのデザインは意味を分かりやすく視覚化するのは作業の半分で、あとの半分が形の形象化です。言語も歴史も文化も異なる利用者になりきって(無我になって)シンボライズする。形の無駄を排して極限まで単純化し、地と図の相関が創り出す造形美と訴求力で世界に誇れる日本の家紋のように使う人のものになる。そこまで行くのは難しいので、一般的には、意味を形で説明して終わる場合も、少なくないようです。

けれどもその後半の実践の手立てが、日本の1200年も続く日本画の基礎造形技術「便化」(べんか)の中にあることを、私は63年前に知り、このブログの最初で一言触れました。35年前には延30名の編集協力者と10年間の執筆編集業務の結果を、日英2ヶ国語で出版した拙書『ピクトグラム(絵文字)デザイン』(1987年柏書房刊)の中でも、多少触れておきましたので参照してみてください。(1冊20,000円の定価ながら、我が国最大手の日販が初版本4,000冊を買い取って、海外の大手取次店に販売したので、現在でも世界の教科書になっています。すぐに完売できたので出版社は増刷を求めてきましたが、「学生の教科書のつもりが高価すぎる」と言って断ったところ、資料編200頁を削除し普及本と呼んで定価5,500円で現在でも販売されています。)

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