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明日の夕焼け

手元の腕時計を見ると16時を過ぎていた。

由美と別れてから無意識の中で5時間近く過ごしていたことに気がつく。

一階ロビーで缶コーヒーを飲んだ後は、フラフラと空港内を徘徊していた。

飛び立つ飛行機を眺めたり、ブランドショップを雑貨屋と同じようなスタイルで無言で店内を歩きまわり、そして出ていく。

疲れたらベンチでまた缶コーヒーを飲むという行動を三回ほど繰り返していた。

ある程度の覚悟はしていたが、今回の失恋はかなりのダメージのようだ。

視界はいつもの半分くらいで地面がつねに揺れている。

気分的にはそんな感じが続いていた。

朝から何も食べていなかったが、やはり食欲は欠落したままだった。

すれ違う旅行客達の高揚を含んだ話し声が、身体に蓄積して段々イライラしてくる。

もう帰ろう…。

僕は一階ロビーを出ると、タクシー乗り場へ向かった。

5組ほど並んでいて少しげんなりしたが、10分ほど待つだけでタクシーに乗り込むことができ助かった。

運転手に行き先を告げると、車は振動もなく滑らかに走り出した。

空港を後にして、しばらく走るとタクシーは連絡橋に入っていく。

夕焼けと言えるほどまだオレンジではなかったが、程好く暖かい日差しが車内に差し込む。

両サイドには穏やかな海が広がり日差しで海面が眩しく輝いていて、その光がちょっとだけ目に染みた。

「ここからの景色すごく良いですよね」

急に50代半ばくらいで白髪混じりの男性タクシードライバーが話しかけてきた。

とくに話すつもりもなかったところに声をかけられたので「はい、良いですね」と反射的に返す。

「でしょ。でも、この時間帯にここを通るとき、もう一ついいモノが見れるんです。それは、空港に行くお客様、家に向かうお客様ともに良い表情をされているんですよ。何かこう、明日の事を考えてワクワクしているように見えるんです」

「へぇー、帰る客もそう見えるんですね」

ルームミラーに映るドライバーの顔は髪を前に下ろし垂れ気味の目で、童顔な愛嬌のある優しい表情をしていた。

「今の僕はどう見えます?」

「…少し疲れている印象は受けますが、前は向いている感じはしますよ」

2呼吸ほど間を空けてドライバーは穏やかな表情のまま答えた。

運転席に目を向けると、『佐藤康二』と書かれたネームプレートの隣に固定された写真立てがあった。

ドライバーと奥さんらしき女性の間に、賞状か何かを広げている若い女性が椅子に座っている写真だった。

「それは、佐藤さんのご家族との写真ですか?」

「あっ見えました?そうなんですよ。娘が美容師の専門学校を卒業しましてね。それで、娘がどうしても写真館で撮ろうと言ったので。ほんと先月の写真です」

「いい写真ですね」

「ありがとうございます。最初は娘が専門学校に行くことに反対したんですけどね。でも、行かせてよかったです。今、娘は美容院で勤め始めたんですけど、以前よりも力強い足取りで玄関を出ていくんです。いつか、自分の店を持ちたいと生意気なことを言ってます」

「いいじゃないですか。デカイ夢ですね」

「いやぁ、また一つ心配事が増えましたけど」

佐藤さんは顔をほころばせなが話してくれた。

「僕ね、勘違いしてたみたいなんですよ。自分は強くて何でも完璧な人間だと思ってたんです。でも、本当は弱い子供のままでした」

ハイブリット車が静かに発進するように、今の気持ちが声となりスムーズに身体から湧き出てきた。

「勘違いなんて、誰でもありますよ。自分の駄目な部分に気づいてへこんで反省して、それを繰り返して人は成長していくんじゃないですかね。50を過ぎた僕も今だにありますよ」

そう言った佐藤さんの言葉は、娘の話をしていた時と違い、語り口調に力強さがこもっていた。

「ありがとうございます。少し楽になりました」

「それはよかったです」

車窓の景色はいつの間にか、見慣れた市街地に変っていた。

タクシーのスピードは減速し、振動もなく静かに止まる。

「はい、ちょうどですね。ありがとうございました」

「僕ね、競輪選手なんです。川端健太といいます。次のオリンピックで必ず金メダル獲るんで、覚えておいてください」

左足を道路に降ろした状態で、大声で思わず宣言してしまった。

「デカイ夢ですね。未来の金メダリストに会えたんだ。絶対覚えておきます。必ず叶いますよ」

佐藤さんはこちらにしっかりと身体を向けて、返事をしてくれた。

「またタクシー乗る時、佐藤さん指名しますから」

「楽しみに待ってます」

僕はタクシーが見えなくなってからも、しばらく歩道に立ち尽くしていた。

街全体はすっかり夕焼け色に染まり、僕もその中に溶け込んでいく。


4月の夕方なのでまだ肌寒いはずなのに、何だかほっこりとあったかい。

夕日みたいなおじさんだったなぁ。

僕は歩き出すと、明日のトレーニングメニューを考え始めた。

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