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エッセー:ポケットモンスター「言葉で考える」 or 「イメージで考える」

こんばんわ。深夜区トウカと申します。
今回は最近感じた事を言葉にして残したくなったのでそれを書きます。テーマはタイトルにある通りです。ちなみにポケモンはまっっったく関係ありません。

書き出し

私がnoteを利用し始めて、1週間が経ちました。わずか1週間、されど1週間。7日間という古代ローマから定められている一つのローテーションの期間中、私は4本の記事を執筆しました。エッセーが2本、解釈(考察的なものと考えていただければ大体間違いありません)が2本。文字数でいうと合計で1万字ちょっとくらいになります。

私は元々文章を書いたり考えたりすることが好きで、趣味レベルで書いた文章をどこかに発表するという経験は何度かやった事がありますが、ここまで短期間のうちに複数本の作品・記事をインターネットに放流したのは初めてです。
"公開"という表現よりかは垂れ流す、という言葉がよく似合う記事ばかりなので"放流,という表現を使ってみます。結構好きな言い方です。棘がない感じがいいですよね。

"公開"というとそれが正しい言い方なのは理解できるけど仰々しいというか、少し硬い印象を受けるので、電子の海に汚れを垂れ流すような私の記事の書き方には放流という表現がしっくり来る気がします。

多種多様な意見で汚染された無法地帯のような海をサーフィンする、というのもインターネットの一つの楽しみ方ではないかと思いますから、今後も積極的に放流をしていきたいと思います。

本題:言葉 or イメージ?

話は変わりますが、人間って明らかに言葉で物事を考えている人とビジュアルイメージで物事を考えている人がいますよね。
Twitterでも少し前に「相手の心を読む能力の話をしてる最中になんか噛み合わないと思ったら自分は言葉で考えていて向こうは映像で考えていた(逆だったかも?)」というツイートがバズっていた記憶がありますし、私の友人にも「数学の図は抜群に得意だけど文章題が本当に苦手(式だけだと大丈夫)」という奴がいました。

その理論からいくと、私は完全に言葉で思考をするタイプです。もちろん映像や画像が浮かんでくることもありますが、多くの物事は言葉に紐付けられ、タグの付いた衣類棚のように保存されています。脳が棚、衣類が記憶という事ですね。

この「言葉 or イメージ」という考え方は程度問題なのではないかと私は思います。統計を取ったことがないので分かりませんが、おそらくは言葉とイメージがフィフティフィフティだ、という人が多数なのではないかと思います。
これは経験というか、自分がこれまで喋ってきた人達を見た上での感覚的な分け方です。本当は国によってイメージが多いとかその逆とか色々あるかもしれませんが、あくまで自分の中ではそういうことになっているわけです。

それでいうと、多分私は言葉9:イメージ1くらいの極端な思考の偏りが存在しているのです。存在している、というのはちょっと変ですが、たまにイメージ先行の脳になる場合もあるので、存在という語を使っておきます(私の感覚の問題なのでそんなに気にしないでください)。

これによって何が発生するか?ズバリ、イメージ型の人と意思疎通をする事が非常に難しくなります。

例え(本題の続き)

せっかくなのでふと思い浮かんだ数学的な例えを使ってみましょう。

まず、言葉で思考する人を「言葉型」、イメージで思考する人を「イメージ型」としておきます。これは冗長になるのを防ぐための処置です。

ここから例えに入ります。多くの人は言葉型とイメージ型が半々、という話をしました。その人たちは言葉で説明されたものを5割理解できるものとします。すると、自動的にイメージで説明されても5割理解できるということになります。

次に、言葉9:イメージ1の人間を用意します。すると、言葉で説明された事は9割理解できるけど、イメージで説明されると1割しか理解できない、という事になりますね?

これは致命的な問題です。どういうことかと言うと、「言葉9:イメージ1」の人間が「イメージ9:言葉1」の人間に出会うと意思疎通が全然できないのです!

相手に言葉で説明しても1割しか理解してもらえないし、相手からイメージで説明されても1割しか理解できない。
勿論、そうなってしまった時はその時なのでなんとか擦り合わせを行いますが、"「これくらいなら言わなくてもわかるだろう」ということが全然伝わってない(恐らく相手からしても似たような感覚があるでしょう)"、という状況が往々にして発生します。

そこで食い違ってしまうとまずい事になる!という場面がが定期的に起こってしまう!
これは非常に恐ろしい事です。

誤解しないで欲しいのですが、"どちらが合わせるべき"とか"どちらが優れている"とか、そんな思想は全くありません。
個人的な立場としてはこれまで出会ったイメージ型の人は芸術的な才能を持っている場合が多いので、むしろ憧れています。ただ、私は数学は全然できないし図は特にダメなので今更どうしようもない。それと比較すると国語の点数は多少良かったので今の思考法を続けているという感じです。

若干話が逸れましたが、とにかく反対のパターンの人と出逢うと非常に厄介な事になる、という事です。そして、思考法を根本から変えることは難しい、と。

ではそんな致命的な状況が訪れた時どうするか?今回は私の編み出した秘策を2つ伝授します。


秘策①:図やイラストを用いて伝える(本題の続き)

分かりやすいですね。相手がイメージなら9割理解してくれるのであれば、自分の考えを上手いこと図やイラストというビジュアルイメージに変換してあげれば良いのです。

長所として、これが上手くいくとほぼ確実に自分の意図している通りに意見が伝わるという点が挙げられます。これはとても大事で、イメージ型の人と話しているとどうしても前提が異なってしまうんですよね。
ここは言わなくてもわかる、と自分が思っていてもそこが伝わってなかったり違う意味で捉えられたりしていることは多々あります。そうすると、前提条件として理解しているものが変わってきてしまうので、全然会話が噛み合わなくなってしまいます。

その点、図やイラストであれば見ているものが一緒なので前提が異なる場合はほぼありません。自分の中にある情報をコントロールして相手と共有することができる、という部分でこれは相当有効です。

欠点としては、言葉型の人間は自分の考えていることをビジュアルイメージに変換できないという点が挙げられます。というか、やらない理由の全てがこれだと思います。
言葉→イメージへの変換というのは翻訳を連想する作業なのですが、英単語分からなかったら英訳って絶対できませんよね。それと同じでイメージの技能がないので変換することが非常に困難なのです。というか、私のような人間からすると不可能です。

有効な戦略ではありますが、「そもそもこの技が使える人はイメージ的能力も持っている」、「言葉で考えている奴はイメージで伝えられない」という根幹に関わる不具合があるので、おすすめはできません。やれるならやったほうがいいというのは確かです。

秘策②:極限まで言葉を噛み砕く(本題の続き)

秘策①が使えない以上、出来ることは言葉で伝える方法を模索することだけです。
考えてみれば、相手も普段は言葉によってやりとりをして、指示を受けているわけですから、やってできない事はありません。

この場合、重要なのは「先入観を捨て、可能な限りフラットに説明すること」です。
先ほども書きましたが、イメージ型の人と会話をしている時には「説明しなくてもこれくらいわかるだろうという部分が共有できていなかった」という状況が頻繁に起こります。それは、言葉型が持っているある種の思い込みのせいだと私は思います。

例えば、こそあどの使い方。例えば、主語の使い方。そういった点が曖昧だと、誤解を招く場合があります。
ちなみに上の一文、"そういった点が〜"というのも多分イメージ型の方にしてみたら分かりづらいと思います。
ここはより具体的に、"こそあどや主語の使い方が曖昧だと〜"と言った方が伝わります。ただ、こちらにしてみるとかえって分かりづらいというか表現が2回重なるので冗長な感じがしてしまうんですよね。そこはもう価値観の違いと割り切るほかありませんが…。

先ほど、私は言葉をイメージに変換することを翻訳と表現しました。それを引き続き使ってみると、この作業はSVOCを意識して短文で英作文を作るのに似ているような気がします。もしくは箇条書き。

とりあえず、自分の事を言葉型と感じている方がイメージ型の方を相手にする時はこっちが大事になってくると思います。

おわりに

ということで、今回の記事は以上です。エッセーと銘打っている割にはコラムっぽい記事になりました。
最初はもっと自由にエッセーを書こうと思ってたんですがだんだん真面目な感じに…。息抜きのつもりがレポートを書いてるみたいになっちゃいました。

ただ、こういった取り留めのない考えはnoteに取り留めておかないと気が済まない性質を持っているので、一応残しておいた、という感じです。

記事の内容はあくまで経験則に基づく仮説的な内容ですが、もし困った時は私の秘策を使ってみてください。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました♪(←精一杯の茶目っけ)


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