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家族とチームになる

3年前に乳房全摘術をして、1年前に肺転移がみつかった50歳代女性。
ご主人は、すでに他界していて、息子さんと二人暮らし。抗癌剤治療を受けながら仕事を続けていた。
抗癌剤の種類を変更した後から、高熱と口内炎で食事が摂れなくなった。

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私たち看護師が初めて会った時は、咳や息苦しさで、在宅酸素を使い始めて、仕事は辞めていた。大学を卒業した息子さんは仕事が始まり、昼間は、近くに嫁いだ娘さんが出産を3か月後に控えた体で訪問していた。

娘さんは、お母さんが一人でいる時間が少なくなるように、看護師と違う時間に実家に行く。「心配な様子があったら、お互い連絡しましょう」と約束した。

彼女は、日によって息苦しさやだるさが違う。
玄関の鍵の開け閉めができない時のために、いつも横になっているリビングの掃き出し窓から入らせてもらうことにした。
窓をノックして、声をかけておじゃまする。
「こんにちは」の後は、リビングのテーブルに並んで座って、血圧や体温、酸素濃度を測って、在宅酸素の機械をチェックする。
彼女は、淡々と落ち着いて、仕事や子供さん達のことを話してくれる。
看護師は前回と違うところや気になることを伝える。

動いた時の息苦しさがあるという。
動く時は、先に呼吸を整えてから行動するように伝えて、口すぼめ呼吸など呼吸法を一緒にすると、酸素濃度は上がって、安心する。

熱が高くなった時は、食欲が落ちて、米飯やパン、グラタンを少しだけ食べた。不足分を補うように高カロリー飲料を勧めたら、家族が用意してくれる。ドラッグストアやコンビニで200キロカロリーくらいの小さいジュースやゼリーを買うことができる。これを1日に1~2本のんでいた。
熱が出て食欲がないと、一日を通して同じ姿勢でいることが多くなった。

外来通院で続けていた抗癌剤の点滴は、医師の判断で、体の負担や効果を評価して1回量を減らして行うようになった。

息苦しいという症状は不安が伴う。
彼女はいつも落ち着いているけれど、表に出さない気持ちに届くように、私たち看護師は限られた時間で、辛さを受け止める努力した。話を聞くときは、肩や手を動かしたり、背中にタクティールというリラクゼーションを行いながら。
体を動かすことも、息苦しさには効果がある。
人は、苦しいと体は小さく縮こまる。肺の周りの筋肉も縮こまる。これを解消するために肺の周りの筋肉が動くように外から触る。「気持ちいい」と言ってもらえる。
穏やかな笑顔に私たちも嬉しくなる。
        
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めまいが出てきて廊下の先にあるトイレに行くことが難しくなってきた。「自分でトイレに行きたい」
ケアマネが彼女の意向を汲んで、レンタルベッドとポータブルトイレが設置されて、一人で動けるように環境が整えられた。
床から起き上がるよりベッドから移動する方が、余分な体力を使わない。苦しくても一人で動けることは彼女にとって大切なこと。

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さまざまな症状が出てきた。貧血で輸血することもあって「(輸血すると)体は楽だけれど、抗癌剤の影響か、だるい。」と話した。
このころに娘さんに赤ちゃんが産まれた。娘さんは毎日のように赤ちゃんと通ってきてくれて、孫の存在は、体のしんどい彼女にとっての希望の光になる。

いつものように娘さんと孫が来ている時に、コーヒー色の物をたくさん吐いたと連絡があって緊急訪問した。
呼吸は速く、聴診器で肺の音を聞くと、下の方に空気が入っていない。
どこで治療をするかを娘さんと相談して、彼女も納得して、救急搬送を選んだ。

呼吸苦、貧血、脱水の診断で総合病院に入院になった。
抗癌剤治療は中止になって、症状を緩和するために薬を使う治療になった。

病気への向き合い方は「病を治す」から「病と共に最後まで生きる」に変わった。

息苦しさは屯用薬を定時に変えて改善した。「家に帰りたい」という彼女の希望を受けて退院になった。

彼女は、以前より眠っている時間が増えた。

退院3日目にめまいが起こって、訪問診療医の診察を受ける。

家族の体制も変わった。
他県で働いていている、もう一人の息子さんが帰省して、介護に加わり、家族4人がそろった。

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脳転移が疑われる症状が出た。

かかりつけ医は、抗けいれん剤の座薬を処方した。その日に娘さんと息子さんたちに、これから起こりうる状態や対応方法について、家で最期までみることについての説明がされた。
家族は、家で看取ることを選んだ。
それ以降、私たち看護師は体の変化に対応できるように、毎日訪問した。

程なくして、深夜にけいれんが起こった。
夜、彼女の横に寝ているのは、帰省した息子さん。
「父の最期の姿に似ている。何かあったら、連絡します」と電話がある。
長男の覚悟を感じる。これから起こる逃げられない現実をわかっている。

彼女の夫が亡くなった時、子供たちは幼く、最期の記憶があるのは、帰省した長男だけだった。
日を追って症状は変化し、食事らしい物は摂れずイオン飲料をのんでいただけ。
それでも、沢山おしゃべりする時間があった。その時は、私たちが知る、もの静かな彼女と違う。
おしゃべりは大体夜間、幻覚を見ているような内容で、長男に「あんた、いい男だねぇ」と普段言わないようなことを言う。
長男は芝居が上手くて、他人のふりをして「よく、言われるんですよ」答えるから、会話は続く。母親が、自分を他人と思って話す言葉にショックもあっただろうに、彼女を安心させる言葉を選ぶ。「明るい母親に会えてよかった」と言う。

連絡をもらうと臨時訪問して、家族と一緒に状態を見て、かかりつけ医に連絡して指示をもらう。そうして、みんなが対応方法を共有する。

薬が屯用から1日2回の定時使用になってから、けいれんは起こらなくなった。
しばしの小康状態。
声をかけると眼を開けて、孫の名前を呼んで、いることを確認した。食べたいものを「葡萄」と言って食べた。
彼女は妹や、亡くなった夫の姉にも大事にされていた。
昼間は女性の親族が取り囲み、目覚めている時に話すことや、しぐさに合わせて、それぞれが手を差し伸べた。
関わるみんなが「今できること」をして、異常が起こったら、連絡することをわかって過ごした。

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娘さんが、自分の力で痰が出せないという。
肺に水がたまるとゴロゴロする。これは取れない痰。
食べ物や唾液がのど元に溜まっていれば取れる。
痰を取る機械があることを伝えて吸引機を置いた。
吸引機は安心のため。
ゴロゴロしている時に、看護師が訪問するまで何もできないのは、そばにいる家族にとってはしんどい時間、だから、痰が出せない時に居合わせた兄弟3人の誰もが使えるように、機械の使い方を説明した。

彼女の3人の子供は、現状を受け止めている。

私たちはチームになって彼女の心地よい時間を作る。在宅酸素、吸引や医療用麻薬、けいれん止めの薬を使って苦痛を遠ざけた。

最後の訪問日は、眼を閉じて深い息をして、話はできなかった。
できることの1つ、家族と一緒に手や顔を拭いた。
数時間後、彼女は天に召された。
初めて会ってから半年が経っていた。

最期の身支度は女性の親族5~6人と、にぎやかに思い出話しをしながら、彼女に似合う洋服を選んだ。


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