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ひなぐ【短編小説】

日奈久、陽、凪ぐ。
人癒し、まどろみの中、だいだいの陽光、海の煌めき。山も町も、朝の光に呼び起こされ、夜に包まれる。

不知火から鬨の声が聞こえる。生き物たちの鯨波が心臓に響く。私は、その生き物たちのように海を泳ぐことも、空を羽ばたくことも、草原で歌い踊ることもできない。しかしその情景を、この大きな藍の布にひと針ひと針、縫い付けることはできる。桜の大木、蛇行する川、緑なびく千里原。藍の大地でその命がほとばしる様を思い描いて、ひと針ひと針、私の心とともに縫い付けてゆく。

私は、大浴場の湯に浸かり、ぷかぷかと浮かんでいる晩白柚《ばんぺいゆ》をぼんやり眺めていた。この日奈久の温泉旅館では、冬の季節は八代市特産の晩白柚を風呂に入れる。晩白柚は、柑橘類の一種で、黄色の果実は直径二十センチほどになる。小さな子どもが、それをひとつひとつ、風呂の縁に並べている。一生懸命、丁寧に。後ろからついてきているもう一人の子どもが、前の子どもにばれないよう、これまた丁寧にひとつひとつ、湯に戻していく。もう、三周目くらいだろうか。と、子どもたちは母に呼ばれ、勢いよく湯から上がっていった。湯に静寂が訪れた。私は、風呂の縁に残された晩白柚を、香りを楽しみながら、ひとつひとつ湯に戻した。年々増してゆく足の痛みが、少しやわらいだような気がした。

私は温泉から上がると、楽な服に着替え、近所を散策することにした。日奈久は、ちくわも美味しいところだ。私は、みやげ屋で買ったちくわを食べながら歩く。海に出るまでの道に、水路があった。ゆらりと、何かが流れた。魚だろうか。澄んだ水に流れる水草に隠れ、私がそれの正体を見定める前に、すぐに見えなくなってしまったが。私はあきらめて、海の方を見た。海は夕暮れの輝きで、少しまぶしかった。綺麗だな、と思った。そして、私が今まで見てきた綺麗なものを思い出した。

 夜空を見上げるカッパの皿に、打ち上げ花火の光が映りこむ。日中、小川を泳ぐメダカの影が水底の石の上を流れる。私は不自由な身を持つが、この美しい理を眺めていれば生きてゆけるだろう、と思った。

旅館に戻った私は、旅行鞄の中から裁縫箱を出した。濃紺の布に、先ほど見てきた海の輝きを縫い付ける。今、縫い付けている海の他には、草花、虫、雲、獣、水のしたたりなどがある。
これは、私が生きてゆくための儀式の様なものだ。私は、私が見た美しいものを刺繍する。すると、不安で押し潰されそうな心が、すっと軽くなり楽になる。自分の中に溜まる毒を刺繍糸が絡めとってくれる。布が、心をろ過してくれる。私は、刺繍し終わった布を頭上にかざす。世の中の汚れが、この布を通り抜け、全て美しくなって、生まれ変わったらよいのにと思う。だが、現実には、そんなこと起きない。世の中は汚れたままで、私の足は不自由なままで、心の毒は何度も溜まり、いずれろ過しきれなくなる。でも、死ぬまでそれを悲しみ、泣き続けるわけにもいかない。だから、私に死が訪れるそのときまで、悲は、凪いだ心であろうと思う。

日奈久の柔らかなぬくい湯に癒された私は、そんなことを考えた。




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