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【小説】宇宙うさぎ21

 目が覚めると、私の顔を覗き込むダイコク編集長、玉寺人事部長、満月、オケラたちがいた。私は、カンガルーの視界から現実の動植物園に帰ってきた。顔のまわりから甘い匂いがした。両手でそっと頬を触るとべたべたしていた。

「あ、ごめんね。どうにかしなきゃって思ってラッキーアイテムぶっかけたの」

 玉寺人事部長が申し訳なさそうに差し出してくれたハンカチを私は受け取り、頬を拭った。あの黄金の光は不知火ジュースだったか。立ち上がって前を見ると、距離を置いて、カンガルーがいた。満月が話しかける。

「おい、カンガルー。ここにいる山田って人間がお前たちを物語の中に連れてってやるから。分かったら俺の目玉返せ」

 カンガルーは憤慨して叫んだ。

「ふん。クソうさぎが。人の箱庭に入り込んで偉そうに……。わが子は捨て去らわれ、カッコウの卵を産み付けられた気分だ!」

 罵倒された満月は唾を吐き捨て応戦する。

「け、てめえも元はよそから熊本に入ってきた外来野郎だろうが」

 カンガルーと満月が互いににじりよる。

「私の生物的出自のみで私の存在を判断するとは、なんと愚かなうさぎだ」

 満月は黙ってカンガルーを睨みつける。

「私の社会的、文化的、精神的故郷はすでに熊本にある。あの時から! そうだ、世界に生まれ落ちたあの時から!」

 園長殿と魂の約束をしたのだ――。

「宙を跳ね、自由気ままに大地を跋扈するうさぎには分かるまい。この動植物園がここに定住している生き物にとってどれだけ大切な場所か。ああ、わかるまい。お前のように根無し草の、浮草の、自由な宇宙うさぎなどにはっ」

 カンガルーの姿にうっすらと人間の男の姿が重なる。揺らめく人影と獣の輪郭が曖昧に溶け合い、この動植物園の生き物たち全てが混ざり合い、でも一つにはなりきれず、個性がひとつずつ飛び出して連なって、魂が集合体になったかのようなおぞましくも神々しい生命の意志の塊。

「クソ。バケモンになりやがった」

 満月は舌打ちした。
 カンガルーの意識は、胎内時代の記憶の海に溶け込んでいった。そして、目の前の邪魔者を排除するために、突進した。
 
 満月は宙を跳ねる。胴をひねり、目線はカンガルーから離さない。仲間の宇宙うさぎたちは蹴り飛ばされて倒れている。人間たちも暴れるカンガルーに手出しできない。天女様ですら近づけない。怒りで我を失ったカンガルーは強かった。満月は己の無力を痛感する。いや、いつも痛感している。猫のようにしなやかに跳転することもできなければ、鳥のように飛び立つこともできず、チンパンジーのように手中に収めたものを掴み続ける握力もない。この小さな体は、脆く弱い。カンガルーにも勝てる脚力はない。

 ――それでも、闘う。

 うさぎという体を持つ生物として生まれ、弱くとも悔いたことはない。弱さを痛感すればするほど、知恵は付き、長所はより成長してきた。うさぎである自分は弱さの象徴であり、裏を返せば弱さというものを知り尽くした強き存在なのだ。仏のためにその身を焼いた血族がいる。神のために人間の祭りに付き合っている血族がいる。

 ――俺は? 

 宇宙うさぎの俺は、恩返し、するしかねえ。地球で寝床をくれた天女様に、この動植物園に……。

 もう、どれだけの時間逃げ回っているだろう。蹴られた耳が痛い。踏みつけられたしっぽはまだ尻にぶら下がっているだろうか。足元がおぼつかなくなる。人間たちがわめいているようだ。

「満月走れ、こっち来い」
「宇宙うさぎ君、逃げて」
「うさぎちゃん、今助けるからね」

 女がひとり、飛び出してきた。ラッキーアイテムの人間。

 ――あ、こけた。どこがラッキーだ。

 地面に転がる水筒をカンガルーが踏みつける。中身が噴き出す音がして、簡単につぶれた。

「ああ、ラッキーアイテムが……」

 人間たちの落胆の声が重なり、女の前にカンガルーが立つ。人間たちがさらにわめく。

「玉ちゃん!」
「部長!」

 天女様が琵琶の弦を弾いて、風と羽虫たちを呼ぶが、カンガルーには無風同様だった。ラッキーアイテムと呼ばれるそれがゆっくり地面にしみこんでいくのが、走馬灯のように玉寺まゆみの視界をしめる。

その時……。
大地を割り、空へ向かって飛び出す黄金の直線。
それが空中で悠然と泳ぎながらのんきな声で、

「不知火ウマーい」

「龍だ!」

 山田が叫び、オケラたちがわめきだす。

「同志! オロチ同志! 助けてえ」

「え」

 山田はオケラたちを見た。

 ――オロチ同志……。オロチ、オケラの仲間の一人。土中の生き物の名を拝借するオケラ……。
 どこがオケラだ? どこがオロチだ? しかも不知火うまいって……。

「やっぱジャンル違い……」

 山田がそう呟くのに重ねて満月が叫ぶ。

「形勢逆転じゃあっ! おいオロチ、不知火ならあとでたらふく食わせてやるから協力しろ! オケラ、ラッキーポーチ作戦でいくぞ!」

 オロチを地上に残して、他のオケラたちは地面に潜っていった。


続く

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