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【小説】宇宙うさぎ16

 夜、動植物園のカンガルーは、仲間の檻をひとつずつ開けていく。
 ひとつ、サイがゆっくりプールから上がってくる。ふたつ、クジャクが羽を震わせ首を上げる。みっつ、サルたちが列をなす。よっつ、いつつ、むっつ……。すべての動物たちが、夜を歩く。その先頭をカンガルーが跳ねる。鍵を開けるとき、カンガルーはいつも園長殿のことを思い出す。
 母の胎内で行われた園長殿との約束。
 園長殿は特異な人間だった。園の動物、植物たちと会話をするように意思の疎通がとれ、我々を小さな箱庭に押し込んでいる張本人だというのに、何故だか嫌われることもなかった。園長殿はただただ我々を好いている人間だった。ただただ動植物園という箱庭を好いていた。さらりとした心が、いつも我々を見つめているようだった。

 私は、カンガルーを母とする生物として生まれた。しかしカンガルーとしての自覚は芽生えず、カンガルーの体の中から外界を覗く別の生物、いや、ただの目玉だけの存在のように感じていた。この目玉で、私は毎日箱庭の、さらに小さな箱庭であるカンガルー舎から空や辺りを眺めていた。ある日、カンガルー舎の柵の前に幼子が立っていた。互いに見つめあっていたら、急に視界が替わった。その幼子の視界が私の視界になった。
 幼子の視界を通して、私は動植物園のことを、広い外の世界のことを知った。幼子と私は色んな世界を、色んな時間を、旅した。幼子は、ある時代では大人の人間で、またある時代ではキノコの胞子で、時代も時間も空間も超越した濃紺の世界では、ガラス玉だった。
 幼子は言った。

「園長殿のことは好きか嫌いか」

「好きだ」

 私は即答し、続けた。

「園長殿のこと嫌いな奴なんていないんじゃないかな」

「そうか。よかった」

「あなたも園長殿のことが好きなの」

「いや、弱い自分は嫌いだよ」

「自分?」

「そうだ。園長殿は、ある時代での私だ」

「何言ってるの。君は子どもじゃないか」

「今はね。でも本当に私なんだ。飛千里(とびせんり)の目玉で、偶然カンガルーの君とつながったんだ。いや、偶然じゃないな。君とつながるようにと、どの時代の世界でも努力してきた結果だな」

「よく分からない」

「いいんだ。ただひとつ、頼みごとがあって君の飛千里の目玉とつながりに来たんだ」

「頼みごと?」

「そうだ。君、君の片目に輝く濃紺の目玉は、世界を、時間を、宙(そら)を渡ることができる。その目玉で、動物たちに夢を見せて欲しい。悲しいことから、逃げださせて欲しい」

「悲しいこと?」

「ああ、悲しいことだ」

 園長殿だというその幼子は、飢餓の記憶を私に見せた。それから、これは予言だといって、動物たちが業火に焼かれる姿も見せた。

「これが戦争だ。そして災害だ。この記憶にさいなまれる動物たちがいなくなることを私は願っている。私の目玉はもうじき宙に還るだろう。そうなったら私が君たちを守ることは難しい。きっと目玉の記憶も無くなる。無に還るんだ。だから同じ目玉を持つ君に頼みたい」

「どうしたら動物たちに夢を見せることができるの?」

「簡単だ。その目玉の力が高まる濃紺の夜、みんなを連れ出して、夜行をおこなったらいい」

「やこう?」

「散歩だよ」

「夜に散歩するだけでいいの?」

「ああ。それで十分だ」

「分かった」

「頼んだよ。優しいカンガルーの子」

 園長殿を名乗る幼子が手を振って別れを告げる。その瞬間、私は母の産道から滑り出し、この世に生まれた。目を開けると、そこはカンガルー舎で、カンガルー舎の柵の前には幼子がひとり立っていたのだ。世界中の時間が、私の周りをぐるぐると回る。私は、自分の望んだその時に、自由に時代を渡る力を手に入れていた。

 カンガルーは振り向いて動物たちの列を確認する。サイ、クジャク、サル、猛獣、小動物……。動物たちの列はまっすぐに伸びている。園の生き物たちは、もう外の世界では自立できない。狩りを、逃走を忘れ、熱い陽射しも冷たい雨露も凌ぐ知恵がない。与えられたものを食み、設えられた寝床で休む。ここは、不自由な極楽だ。もしも、自由気ままに自立を求める生き物が現れたら、そいつはこの極楽を地獄のように感じるのだろうか。世界を知るこの目玉は危険だ。絶対に他に渡してはならない。園の動物たちの幸せを守るためにも。園長殿との約束を守るためにも。


続く

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